※『秀長と秀吉 豊臣兄弟の謎がわかる本』(河出書房新社)より一部項目を抜粋してUPします。
名補佐役の最期
悪化していく秀長の病状
秀吉が偉業を達成した一方で、秀長の病状は一進一退が続いていた。天正18(1590)年4月までには一時回復し、京都から大和に戻っている。
5月3日には大政所と正室の東大寺見物に一時同行し、秀吉の帰還を待つべく7月25日に上洛している。大和への帰還は兄の帰還を見届けた9月25日。晦日にはその足で東大寺の造営状況を確認していた。だがその旅路で病が再発したのか、『多聞院日記』天正18年9月晦日条では「煩い、いかにもしかるべからずとみえたり」と、病状の悪化を伝えている。
10月に入ると症状は「煩一大事(深刻な状態)」となり、10月19日には秀吉がみずから大和へ見舞いに訪れている。『多聞院日記』によると秀長死去の噂も流れていたようだ(10月20日条)。実際にはまだ存命していたが、秀吉が秀長家臣の横山一庵に死後の領地配分に関する命令を下しているので、深刻な状態だったのは確実だ。
秀吉が10月26日付で出した朱印状によると、このときも秀長は病状から回復している。しかし、11月を境にまた悪化。27日の正室上洛でも、行歩難治(歩行困難)なので同行できなかった(『多聞院日記』天正18年11月26日条)。12月初旬からはまたも死亡説が流れたとされ、秀長の病状は予断を許さない状況が続いていたのである。
秀長の死と暗殺疑惑
12月から秀長の病状はいっそう悪化した。『多聞院日記』天正18年12月2日条によると、秀長は数日前から発熱をくり返し、てんかんのような痙攣を起こしていたという。10日に大和入りした朝廷の使者をもてなしたのも、家臣団と御虎(豊臣秀保)である。『侍従殿』や『晴富公記』によると、秀長は風邪引きで対応できなかったとしている。
病状が悪化の一途をたどるさなか、天正19 (1591)年正月に秀長の娘と秀保の婚姻が行われている。『多聞院日記』天正19年正月条によると、秀保の年齢は13歳前後、娘は4~5歳だったとしている。死期を悟った秀長が、秀保の養嗣子(家督相続人となる養子)としての地位を固めるため執り行ったようだ。
その婚儀を見届けた正月22日、秀長は大和郡山城城内で他界した。享年52。『医学天正記』では死因を胃腸系の疾患と推測しているが、正確な死因は不明である。
なお、秀長の死には暗殺疑惑も囁かれている。生前の秀長は石田三成ら新興勢力と対立していたとされ、天下一統後に秀吉との意見対立も予想されていたという。そのため秀吉が政権の安定化と自身の体制強化のために暗殺したというのだ。
ただし、この説を裏付ける証拠は何もない。秀長の病状悪化は多数の史料が裏付けており、暗殺説は現時点だと俗説として扱われている。徳川家康や石田三成なども犯人候補とされているが、確固たる証拠はない。
莫大な遺産を築いた「奈良借」とは
秀長の死後、大和と紀州の領地と家臣は秀保に引き継がれた。葬儀は正月29日に郡山で行われ、葬列の見物人は20万人を超えたと『多聞院日記』や『兼見卿記』は記す。なお、使者の長谷川藤五郎が秀長の遺産を調査したところ、金子5万6000枚、銀子2間4方の部屋分、銭も把握できないほど貯蓄されていた。
これらの財産は「奈良借」で築かれたという。秀長は奈良にて金銀米銭の高利貸付業を行っており、巨万の遺産はこの施策で蓄えられたものだった。ただ、この奈良借は秀吉の命で実行された施策だともいわれている。
奈良借は天正19(1591)年8月24日に秀吉が発した徳政令で、表向きは廃止されている。しかし、天正20(1592)年4月に南京奉行の井上源五が貸し付けを続けたことが判明。告発した町人たちは郡山にて投獄されたが、逃亡した一部が大坂で直訴に及んだ。この訴えで原五の過分着服も判明し、郡山に投獄された町人も解放された。
ところが10月9日、京都に呼び出された町人衆が再び投獄されたのである(11月に釈放)。不正に協力した金商人(両替商)は処罰されたが、源五はその後も南京奉行を続行している。
秀長死後の大和郡山
秀長死後の大和郡山城城主は秀保となる。ただしまだ10代であるために、家臣への知行権の一部は秀吉が握っていた。天正19年8月22日に伊藤忠兵衛尉へと出された名草郡中郷(現在の和歌山市)の宛行文書には、秀保と秀吉両名の判と朱印が押されている。
統治の面では秀長時代の商業保護を継承しつつ、郡山での屋地子(土地税)免除と奈良での増税を実施している。土地税免除は大坂と京都でしか実施されておらず、郡山は秀吉政権の経済拠点としてさらに発展することになった。
天正20年正月29日に中納言の位を賜ったことから「大和中納言」と呼ばれた秀保は、文禄4 (1595)年4月16日に急死してしまう。秀長の家系はここに途絶える。だが郡山町人は秀長への畏敬を忘れず、江戸時代中期には「大納言塚」が東光寺(現在の春岳院)につくられた。いまも毎年4月に大納言祭が盛大に執り行われている。
了
