大正デモクラシー前夜「第一回護憲運動」と陸海軍の不祥事

 

 日本を未曽有の危機におとしいれた「太平洋戦争(大東亜戦争)」。1941年12月の真珠湾攻撃から約4年間つづいた戦争の発端については諸説あるが、大正時代だという意見もある。
 大正時代初期の日本は、日露戦争の賠償金放棄に反発した国民による暴動事件「日比谷焼き討ち事件」で社会不安が増大し、さらに公債負担と軍事費の増加で財政難がつづいていた。こうした最中に発生したのが、第二次西園寺内閣と陸軍の対立だ。
 1912年12月、陸軍は朝鮮半島への二個師団増設を求めたが、内閣は財政難を理由にこれを否決。すると上原勇作陸軍大臣は辞職し、陸軍首脳も後続を出さなかった。
 当時は現役将校を大臣にする「現役武官制」があったので、大臣を欠いた内閣は総辞職してしまう。軍部が内閣を倒す前例は、すでに大正時代にあったのだ。
 そのころは長州閥官僚の桂太郎と、与党・立憲政友会の西園寺公望が交互に政権を担当する「桂園内閣」だったので、即座に第三次桂内閣が発足した。これに猛反発したのが民衆である。
 当時は派閥政治への反発がピークに達した時期でもあり、この倒閣を陸軍と長州閥の癒着とみた人々は反対運動を展開。すでに解散前から、東京商業会議所を中心とした「増師反対実業団」が結成される。内閣に連立を断られた立憲政友会と野党勢力もこれに合流し、「第一回憲政擁護大会」に集結した民衆は約3000人。「憲政擁護・閥族打破」をスローガンとする政権批判が全国で展開された結果、翌年2月初頭より東京日比谷にて群衆と警官隊が衝突する事態となる。
 この騒動が大阪、神戸にまで波及し、第三次桂内閣は12日に総辞職。陸・海軍大臣の任用資格を退役将校にまで拡大し、現役武官制度も事実上廃止された。いわゆる「大正政変」である。
 しかし、後任の山本権兵衛内閣は薩摩閥だったので派閥批判は変わらず続く。さらに今度は海軍が不祥事を起こしてしまう。日本の海軍士官が、ドイツ・シーメンス社とイギリス・ヴィッカー社から賄賂を受け取っていたのだ。
 この、1914年1月に発覚した「シーメンス事件」により、野党勢力は内閣を厳しく弾劾。2月初頭には全国で事件の批判演説が行われ、9日の憲政擁護大会にも1万人の民衆が詰めかけた。やがて10日より警官隊との衝突が発生すると、山本内閣も3月に倒れてしまった。
 一連の抗議運動を「第一次護憲運動」と呼び、派閥政治と軍の権威は失墜。民衆の立憲意識は大いに高まり「大正デモクラシー」へとつながっていく。そして、この大正デモクラシーこそが、太平洋戦争の要因の1つともいわれているのである。

 

この記事に関するお問い合わせは

info@take-o.net

までお願いします