※「大阪史跡さんぽ」(河出書房新社)より一部を抜粋してUPします。
若いフランス水兵が犠牲になった「堺事件」を知る
土佐藩士がフランス水兵たちを殺傷
1853(嘉永6)年、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーが浦賀沖に来航。開国を求める大統領国書を幕府に提出した。
翌年、ペリーは再来航し、日米和親条約が締結される。4年後には日米修好通商条約が調印され、同様の条約がイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結ばれた。これらを総称して「安政五カ国条約」ともいう。
これらの条約で、まず箱館(函館)と下田が開かれ、続いて横浜、長崎、神戸、新潟(下田は閉鎖)の開港が定められる。同時に江戸と大坂の開市も決定した。しかし攘夷運動の激化や朝廷の反対などがあり、神戸と新潟の開港と江戸、大坂の開市は延期。神戸と大坂は1868(慶応4/明治元)年に、新潟と江戸はその翌年に持ち越されている。
大坂が開市した2か月後、フランス海軍は堺港内の測量を行なう。これは前年に大坂天保山沖でアメリカ海軍のボートが転覆し、提督らが溺死した事故を踏まえてのものだ。
この測量中、フランス軍水兵が堺に上陸して狼藉をはたらく。これを捕縛しようとした警備隊の土佐藩士に対し、水兵は隊旗を奪って逃亡を試みる。とっさに土佐藩士は発砲。フランス水兵11人が射殺もしくは海で溺死することになる。
この事件を受け、フランス政府は抗議し、賠償金の支払いと謝罪、下手人である土佐藩士の処刑を要求。明治新政府は、そのすべてを受け入れた。
これが、江戸時代から明治時代に移り変わる直前に起きた「堺事件」のあらましだ。しかし、フランス水兵が悪者で土佐藩士が堺を守ったとするのは、真実と異なるという意見もある。
そのことについては、本項の最後に触れるとして、まずは事件に関する史跡などを訪ねてみたい。
衝突はなぜ、起きてしまったのか?
南海本線堺駅を下車し、東出口を出て南側に進むと川が流れている。内川といい、江戸時代に掘られた濠のあとだ。川に架かる南蛮橋には、欄干に手をかけて遠くを眺める南蛮人像が。愛称を「橋上ポルト之助」という。
ポルト之助の身長は190センチ。ポルトガル人という設定で、南蛮貿易で栄えた時代に堺に漂着したポルト之助と町娘の淡い恋の物語『やくそくのリボン』がYouTubeで公開中だ。「願いを込めてリボンを欄干に巻くと、ポルト之助があなたの願いをかなえてくれるかもしれません」とのナレーションで締められていることから、南蛮橋にリボンが結ばれるようになったとか。
橋を渡って南海線の高架下をくぐり、少し行くと石碑の立つ広場に出る。スペースは狭いが、この場所にはいろんなエピソードが残されている。
順を追うと、まず1862(文久3)年、「天誅組」が堺に上陸した場所である。天誅組とは尊王攘夷派の志士たちで結成された武装集団で、伏見から大坂に下り、そこから堺に入って狭山を目指し、幕府直轄地である大和の五條で代官所を襲撃して自称「五條御政府」を設立する。
しかし、最終的には逆賊となって追討されて壊滅。その5年後、この場所で堺事件は起きている。
堺事件勃発当時の様子を、もう少しくわしくたどると、まずフランス副領事のヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアが堺見物のため、外国事務掛の宇和島藩士らと大坂から大和川を渡って堺に入ろうとする。それを警備の土佐藩士は追い返してしまう。
このとき土佐の警備隊長らは、開市した大坂同様、堺が遊歩許可地(自由に歩ける場所)であることを知らなかったとされている。
堺港を測量したフランス軍艦は、ヴィヨーとロアを乗船させて神戸に向かう任務も担っていた。そして2人を迎えに水兵数十人が上陸。そのうちの6人が、茶屋で1時間ほど休憩したとの記録も残る。
この上陸をこころよく思わなかったのが、土佐藩六番隊警備隊長の箕浦元章と八番隊警備隊長の西村氏同だ。そもそも箕浦は攘夷論者であった。しかもフランス軍は堺港内だけでなく、内川に架かる栄橋近辺にまで入り込んで測量をしている。この行為をやりすぎと感じたのだろう。
箕浦らはフランス水兵に帰艦をうながした。しかし、言葉が通じずに水兵たちは逃げ出そうとする。これに対し箕浦は発砲を命じたのだ。
フランスは事件にかかわった全員の死刑を要求
事件勃発の舞台となった場所には、天誅組上陸の石碑と「堺事件発祥の地碑」が建てられ、「旭橋」と刻まれた橋柱が建てられている。この場所に架かっていた橋の名で、上陸したフランス兵が休憩した茶屋は「旭の家」といった。
1888(明治21)年、旭の家をふくめた周辺の土地を整備し、社交クラブ「旭館」を開いたのが鳥居駒吉。鳥居は翌年に大阪麦酒会社を創業し、ブランド名の「アサヒビール」は 旭館が由来だともいわれている。
なお、栄橋や近くの竜神橋付近は遊郭があり、地域の氏神である神明社には、当時の楼主が寄進した玉垣が残されている。
堺事件に話を戻す。殺害された水兵は20代の若者たちばかり。おそらくは、恐怖を感じての逃亡だ。フランスは土佐藩士による虐殺とし、事件にかかわった隊士全員の死刑を要求する。
これに対し日本側は、処罰する人数を減らすよう交渉し、結果20人が切腹と決定。箕浦ら4人の責任者に加え、残りの16人はくじ引きで選ばれている。
切腹の場所となったのは、現在の堺市堺区材木町東にある妙國寺。旭橋跡からは歩いて25分ほどの場所になり、寺の前の歩道沿いには「とさのさむらいはらきりのはか」の石柱が立つ。
あまりにも残酷だった11人の切腹シーン
妙國寺は1562(永禄5)年、三好長慶の弟、実休が寄進した土地に設立された。皇室の勅願寺でもあり、国の天然記念物であるソテツにまつわる織田信長の伝承が残る。
妙國寺のソテツを気に入った信長は、堺から安土城の庭園に移植。ところが、ソテツが毎夜「堺へ帰ろう、堺へ帰ろう」と泣いたため、激怒した信長が家臣に命じてソテツを斬った。
すると、ソテツは切り口から血を流して苦しみ始めたため、さすがの信長も気味が悪くなり、もとの妙國寺へ返したと伝わる。
信長の伝承の真偽はさておき、フランス士官らの立会いのもと、妙國寺の本堂前で切腹は行なわれた。
隊士たちは辞世の句を詠み、次々と腹を切る。だが、12人目に差しかかったとき、フランス軍艦長のアベル・デュプティ=トゥアールが、外国局判事五代友厚に中止を要請。その理由について、フランス側の犠牲者と同数になったため、むごいシーンの連続にフランス公使がいたたまれず席を立ったからなど、いくつかの俗説が唱えられるが真実は不明だ。
土佐藩士の墓は妙國寺に置かれる予定だったが、「勅願寺に罪人を葬るのはいかがなものか」という意見が通り、向かいの宝珠院に設けられることになる。現在の宝珠院の門前には「史蹟土佐十一烈士墓」の石碑が立ち、藩士たちの墓も現存する。ただし、幼稚園を運営していることもあり、寺院の敷地に入るには許可が必要だ。なお、墓は建立されなかったが、妙國寺には慰霊塔が建てられている。
事件前のフランス軍水兵の行動については、「婦女子をからかうなどの狼藉があった」とする説と、「旭の家にいる水兵を珍しがって人が集まり、互いに菓子やパンをふるまいあって友好的に過ごしていた」とする説もある。
ただ、発砲した土佐藩士29人に被害者がいないということは、水兵は反撃せず一方的に殺害されたと考えられなくもない。
また、殺害されたフランス水兵11名は、神戸外国人居留地墓地において埋葬されている。
【著者紹介】
歯黒猛夫 —— はぐろ・たけお
1962年生まれ。大阪府岸和田市出身・在住。大阪に拠点を置くライター&編集プロダクション会社「オフィステイクオー」代表。ライターとして自らの足で取材し、歴史・地理からお国気質まで、大阪のさまざまな顔を発信。大阪関連の書籍、雑誌の執筆にも多数関わる。著書は「2025年大阪ほんま本大賞特別賞」を受賞した『大阪人も驚く 大阪超マニアック案内』(小社刊)、『大阪がすごい——歩いて集めたなにわの底力』(筑摩書房)ほか多数。
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