私の心臓が止まったのは13年近く前。
35歳だった。
妻と伯母の心臓マッサージ、救急隊によるAEDでの心配蘇生、市民病院の循環器内科医らによる処置により私は一命をとりとめた。
『一度[心室細動]になるとICD(ペースメーカー)を植え込まないと退院できない。』と言われ、私は医大でICDの植え込み手術を受けた。
再度心臓に致死性の不整脈が現れると、私の左胸部、肋骨と皮膚の間に埋め込まれたICDが検知し、電気ショックを与えて心臓を蘇生させる。
私のICDの役割だ。
退院して13年近く。1度も作動せず、私の心臓を見守り続けてくれた。
先日、ICDの残電量が少なくなり、6時間毎にアラーム音が左胸部から聴こえるという困った事態が起こってしまった。
2日後に医大に診察に行くとやはり、
「ペースメーカーの電池の取り替え手術の時期です。手術の入院はいつにしましょうか?」
と医師が聞いてきた。
早い方が良いと思ったから、
「1月15日で。」と手術の予約をした。
今月末には介護福祉士の国家試験があるが、面倒なことはチャッちゃと終わらせたい。
手術での入院は2泊3日。
「痛みさえ無ければ仕事をして良いです」と言われたが、車の運転を1週間してはいけないそうだから職場から1週間の有給休暇を取った。
医大で2泊して、退院したら自宅で資格試験の勉強時間に4日。
のんびりした時間がもらえる。
#年始に
#ちょっとゴチャゴチャ
私の心臓はなぜ止まったのか。
たまに考える。
寿司屋を始めた父親が亡くなって、わずか2ヶ月後のことだった。
アルコール依存症で肝硬変になり亡くなった父親。
いわゆるアダルトチルドレン(AC)として育った私は、両親の喜ぶ姿見たさに生きた。
寿司屋のあとを継げば両親は喜び、私に愛情を注いでくれる。
私の心は単純に愛情飢餓感の塊だった。
結婚するまで「引きこもり」になるなど問題を抱えながらも寿司屋のあとを継げるまでになれた。
すると、私は自身の生き辛さの原因は両親にあると思い、父と母を恨み始めた。
重度のアルコール依存症になり、寿司を握れなくなる父親を憐れに思い喜んだ。
アルコール性の肝硬変と診断された父親はその後も6年間酒を飲み続け、亡くなった。
父親が亡くなり、私が寿司屋の二代目になり、これでようやく自分の人生を始められる。
そう信じて寿司屋の大将を始めた2ヶ月後、私の心臓は止まった。
これが何だったのかをたまに考える。
ICDの植え込み手術をした私は退院して半月後、寿司屋を再開した。
30代半ば過ぎだった私は、寿司屋をする以外の選択肢を持たなかった。
そして今度は、私がアルコール依存症になっていった。
寿司屋の客を“父親の客”から“自分の客”へと、何年もかけて入れ替えていった。
3人の子どもに恵まれ、妻も下の子をオンブしながら共に働いてくれた。
何も不満も無いはずなのに、私は酒だけを友としていった。
365日、朝から日本酒を体に流し込んだ。
毎日『一升酒』。
酒に酔ってないと手が震えて寿司が握れない。
日を追うごとに体調は悪くなった。
4年続けた連続飲酒でγ-gtpは2000を超え、私の体と心は完全に壊れてしまった。
アルコール依存症の治療は精神科病院。
私は精神科病院に3ヶ月入院をして、退院後に寿司屋を閉めた。
振り返れば、最初から望んでこの人生を選んだのだと思っている。
私の心臓がとまった時。
あの時、私は自分の人生を生きていなかった。
愛情飢餓感の塊だった私が、両親を恨むようになり、父親が亡くなった後には恨みの対象を無意識に寿司屋に向けた。
わたしが私の心臓を止めないようにするためには、無意識の恨みの感情に対し、真正面から向き合わなければいけなかった。
その後、重度のアルコール依存症になった時も同様。
いま生きている私は、私のための人生を生きなければいけない。
その事を深く考えなければいけなかった。
心室細動とアルコール依存症。
遠まわりをしている人生だが、2つの病気があって今の私がいることに違いがないし、
私はこの2つの病気を経験したうえでの人生を噛み締めたいと思っている。