酒をやめて3年。
私がアルコール依存症なのは無意識の恨みを持ち続けたから。
というのが一応の終着点となったのだが、
いわゆるACの世代連鎖
私はいわゆるAC(アダルトチルドレン)として育った。育児放棄という辛すぎた幼児期だった。
育児放棄をしても何も思いもしない人格の人間に育てられる。という事が本当の問題で、
育児放棄があったのかなかったのか?
育児放棄の期間が長かったのか短かったのか?
というのは事の本質ではない。
「自分の生き辛さの原因が両親にある」
と思い始めたのは私が20代前半の頃で、当時私は両親に疑念の思いを率直に伝え大いに喧嘩をした。
父親は酒を飲み続けてアルコール性の肝硬変になって亡くなった。
母親とは現在も同居をしている。
妻と子どもたちと暮らしているが、母親と会話はしない。私を産んだ唯の女性だ。
私は10代後半から両親の寿司屋で共に働いていたが、働くことがとにかく苦痛で仕方がなかった。
仕事に出てさえしまえば、体はいくらでも動いた。両親も喜び、客も喜んだ。
しかし次の日の朝になると体が鉄の塊の様に重くなった。どれだけ仕事に行こうと思っても、体が言うことを聞いてくれたかった。
そんな私を皆んなせせら笑った。
理解者が全くいない絶望の時間。
私は自分がどうしようもない怠け者だと思い、とにかく自分を責めた。
25歳で結婚して子どもが産まれた。
私は自分がACだという自覚があったので、何とかして自分の子どもには【同じ想い】をさせたくないと思っていた。
妻に「寿司屋の仕事をしろ」とは決して言わず、子育てに専念をさせた。
下の子が年少として保育園児になるまでは、妻を寿司屋の仕事に出させない。
「三つ子の魂百まで」という言葉の解釈には差があるが、私は幼い子が人格形成をする上で生まれて3年が最も重要な期間という意味でとらえている。
幼い子が母親の愛情をしっかりと感じ取りながら育つことは、何にも変え難いこと。
心の根底に『母なるもの』を持つ者と、そうではない人間は違う生き物と言ってしまっても過言ではない。
寿司屋には私を人間として扱うことが出来ない両親がいた。結婚後、私は妻に寿司屋に出て働いてもらいたかった。
しかし「下の子が保育園の年少児になるまでは」と忍の一字で耐えに耐えた。
3人の子に恵まれたから下の子が年少児になるのに結婚して10年もかかった。
私はいわゆるAC(アダルトチルドレン)の世代連鎖を自分の代で止める事を目標にして生きていた。
誰にも言わずにその為だけに生きていた。
私が34歳の時、父親が酒の飲み過ぎで亡くなった。私をACにした片方がいなくなったから祝いの酒を飲んだ。
「よくここまで頑張った。」と自分を褒めた。
いよいよ下の子も3歳になり、念願だった妻と寿司屋の経営ができると安心をした。
寿司屋の二代目としてあとを継ぎ、自分の人生が始まったと喜んだのだが2ヶ月後に心臓が止まって命が無くなりかけた。
この時が気付くべきタイミングだった。
私は両親への恨みの気持ちを寿司屋にも向け、その対象にしていたことを。
私の無意識は「この期に及んでまだお前は自分の人生を生きないのか?ならば心臓を止めてやろう。」と思っていた。
心臓付近にペースメーカーを埋め込み障害者になっても、私は自分の本心である無意識に目を向けられなかった。
その後数年間、私は恨んでいる寿司屋の中で一所懸命に働いてしまった。
客は喜んでくれたし、客層も数年掛け自分の客に全て入れ替えた。他の飲食店のオーナーたちが羨むほど品を持つ上客しかいなくなった。
ただ、どんなに頑張って働いても報われない空虚な時間だった。
そして朝から酒を飲む連続飲酒に落ちていった。
ただ闇雲に酒を飲んだ。
「酒を飲んで自分の人生を終わらせよう。」と決めたのだから、何も怖くなくなった。
そうなのだが、一つ引っかかっていた。
私は子ども達に、いわゆるACの世代連鎖をとめる為に頑張っていた時期があったんじゃなかったのか。
その為に、我慢を重ねて生きた時間。
あれは何だったのか。
連続飲酒を数年続け、体と頭はどんどん弱った。
「まぁいいか、酒を飲んで忘れよう。」と湯呑みに日本酒を注ぎ続けた。
狂ったように酔う私から遠ざかろうとする子ども達。それを目の前にしても、何も思わないようになっていた。
酒をやめたいと思っても、体がガタガタ震える離脱症状に襲われて薬物中毒者そのものだった。
無意識を認める
アルコール依存症治療から退院して3年。
私は介護施設で働いている。
酒を飲んでいた頃を振り返れば、思うことは様々だが私は第2の人生を生きている。
私は、私が楽しく生きられる為にと生きている。
子ども達には思うような教育環境を提供してやれないから多少悪いと思う。
しかし子ども達は毎日楽しそうに生きている。
私が三つ子の魂百までと頑張った時間は無駄ではない。
子ども達は『母なるもの』を体感する幼児期を過ごした。
そして私が重度のアル中であった時には苦しみ傷ついた。
お父さんが酒をやめ『自分の人生を生きている姿』を見て希望を取り戻しもした。
私に足らなかったものは、無意識の自分を認めてやるということ。
勝手な自己満足だろうか、。