俺の作品について。 | 富山県のイラストレーターブログ

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富山県で絵描きとして活動中のだいごろうのアート作品ブログ。

 

 

さて、唐突だけど・・・

 

すべての人には、「好き」と「嫌い」がある。

それが「好み」というものだ。

 

『食べ物』で考えてみたら、一番分かりやすい。

 

『ある食べ物』があったとして、

「大好き!毎日でも食べられる!」という人もいれば、

「俺の前で、それを食べるな!見るだけでも吐きそう!」という人もいる。

中には

「好きでも嫌いでもない。」という人もいるし、

「好きでも嫌いでもないけれど、行列に並んでまで食べたいとは思わない。」

「嫌いじゃないけど、今日は、そういう気分じゃない。」

という人もいる。

 

千差万別。個人の好み。

『個性』といってもいい。

 

しかし、『ある食べ物』を、誰かが「大嫌い」だったとしても、

その『ある食べ物』には、何の罪もない。

「存在自体が悪である!」と言う人もいるだろうが、

それは、個人の『好み』であり、個人の意見だ。

万人が、それを『悪』と思わなければならないことはない。

「そうか、キミはこれが嫌いなのか。僕は、これが好きだけどね。」で、おしまい。

それでいい。それがいい。

 

「みんな違って、みんないい。」とは、このことだ。

 

たとえば・・・俺は、『納豆』が大嫌いだ。

目の前で食べられるのも苦痛だ。あの臭いで吐き気がする。

しかし、『納豆』自体が、「悪」だとは思っていない。

『納豆』には、とても豊富な栄養素を含んでいる。

だから、人間の体に良い食べ物なのだ。

しかし、俺は嫌いなのだ。食べたくない。

それだけのことだ。

俺の家族は、俺の目の前で、食べている。

でも、俺は、別にそれに対して怒ることも嫌悪することもない。

「俺は食べないけど、食べたいなら、どうぞ、ご自由に。」

それでいい。それがいい。

 

無理に、食べることを阻止することもなく、

無理に、食べることを強要されることもない。

個人の自由。

お互いの自由を尊重している。

 

それが、全人類、共存して生きていくのに、

とても大切な『考え方』なんだと、

俺、個人はそう思っている。

 

「大嫌いだから、この世界から抹殺しなければならない。」

というのは、ワガママであり、

「俺の好みは俺のモノ。お前の好みも俺のモノ。」では、

個人の自由を尊重し合えないし、

この世界は、多くの人たちが住みにくい世界になってしまうだろう。

 

 

 

・・・以上を踏まえて・・・

 

 

 

俺の作品を見て、俺のことを嫌いになった人がいる。

 

まず、『アート』は、なんでもありの世界。

中には、攻撃的な内容を表現した作品もあるだろう。

誰かを批判するような、卑下するような、風刺を切るような、

そんな作品も、大昔から、世界中にある。

 

でも、俺の作品は、誰かを攻撃するような作品作りをしていない。

誰かを傷つけるような、誰かを怒らせるような、誰かを悲しませるような、

そんな作品は、今のところ、生み出したことがない。

 

・・・でも、『アート作品』というのは、

見る者、受け取る者によって、

どうとでも受け取ることができてしまうものだ。

作者本人の意思とは関係なく、「皮肉か!」と受け取る人もいれば、

「悪意を感じる!」と受け取る人もいるだろう。

 

でも、それも、個人の自由だ。個人の好みだ。

個人の感じ方、個人の受け取り方、個人の解釈の仕方、

それらは「こう感じるべきだ」なんて、言えない。

その作品を作った作者であっても、

見る者の感想は、捻じ曲げることはできないし、

そんなことをしてはいけない。

 

お互いの自由を尊重し合わなければならない。

「キミはそう感じるんだね。俺はそう感じないけど。」で、おしまい。

 

『食べ物』の好みと同じだ。

 

その食べ物自体に、悪意はない。

その食べ物を作った農家さんに、悪意があるはずがない。

愛情たっぷり、時間と手間暇をたっぷりかけて、

精魂込めて作った、食べ物だ。

 

『アート作品』も、同じ。

作品自体に、悪意はない。

作者に悪意があるはずがない。

たっぷり時間と手間暇をかけて、描いたんだ。

 

作者にも、作品にも、何の罪もない。

あるわけがない。

それが罪に問われるならば、誰もが、おいそれと作品を作れなくなる。

 

 

 

俺は、繋がってくれている『ご縁』に対して、

感謝を込めて、残暑見舞いと年賀状を、毎年、贈っている。

そのためのイラストを描いている。

お金のためではないし、媚びているわけでもない。

 

その作品に込めているのは、『感謝』だ。

 

俺もヒマなわけじゃない。

それでも毎年「これだけは描きたい。伝えたい。」という想いがあって

イラストと、メッセージを書き添えて、贈らせてもらっている。

 

相手に楽しんでもらえるように。俺自身も楽しんでいる。

ハガキを受け取った時に、一瞬でも、クスっと笑ってもらえたらいいな。

思わず笑顔になって、一瞬でも、嫌なことを忘れたり、

元気になってもらえたらいいな。癒しになれればいいな。

そんな想いで、贈っていたんだけど、・・・ね。

 

 

 

まさか、嫌われるとは思ってもみなかったな(汗)

怒りと嫌悪を感じる、お返事メッセージをもらった時には、

頭をガツンと殴られた気がした・・・。

 

なるべく冷静に、返信してみたけど、俺は泣きそうだった。

 

楽しんでもらえたら、それでよかったのに。

こんなに時間かけて、想いを込めたつもりだったのに。

 

でも、それこそ、『食べ物の好み』と同じなんだ。

他人の感想を、作者の思い通りに、捻じ曲げることはできない。

俺の作品は・・・相手の口に合わなかっただけのことなんだ。

・・・そう思うしかない(汗)

 

 

 

話が長くなったが、そんなわけで。

 

俺が、自分勝手に『ご縁』を感じて、

自分勝手に『感謝』を込めて、作品を描き、

それを残暑見舞い、年賀状として贈っているわけだけど・・・

 

もし、それ自体が「イヤだな」と感じておられるなら、

そんなふうに、お伝えください。

俺は、俺の作品を楽しんでくれる人にだけ、贈りたいので。

受け取るたびに、嫌悪されるのは、俺にとっても望んでいないことなので。

 

それは、きっと『食べ物』で例えるなら、

俺に対して、夏と年始に『納豆』を贈りつけられていることに値するわけで(汗)

それは、嫌悪するよね・・・(汗)

 

 

 

ちなみに、年末、

俺と『ご縁』で繋がってくれているみんなに贈ったのは、

こんなイラストの年賀状だ。

 

(一部のみ公開。)

 

少しでも「ふふっ」と笑ってくれたら、ありがたい。

笑う門には福来る。

なかなか終わらないコロナ禍で、

未来に不安が多い世の中だけど、

『ご縁』で繋がっている方々には、元気に、

いっしょに、がんばっていきたいと願っている。

 

それと、俺は相手に嫌われても、俺は相手を嫌いにはなれない。

「問題は、問題視している人の目の前にしかない」んだから、

相手には俺を嫌う理由があっても、俺には相手を嫌う理由がない。

 

しかし、嫌われていると分かっているのに、

こちらから接触したり、連絡を取ったり、イラストを贈ったり・・・

そんなことはしない。

相手の気持ちが分かっているうえで、それらをするのは、

もう「いやがらせ」でしかなくなるから・・・。

それは、俺のやりたいことではない。

 

俺の望んでいたことではない。

 

だから・・・嫌われたら、ご縁を切って、

相手の人生、相手の世界から、身を引いて、消えるしかない。

関わらなければ、存在していないのと同じだから。

 

 

 

今まで、ありがとう。

ご縁が切れても、嫌われても、俺は、

あなたの幸せを勝手に願っています。

さようなら。