最近のメンタル・・・。 | 好きな音楽で共鳴理論の渦を巻き起こしたい

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最近の自分が、今までの普通だったときの自分ではない。今までの自分を完全に見失ってしまった。
何が原因なのかすらもわからないまま。でも、ひとつ言えるとするのなら、今、自分にかかわってるすべての人が原因なんだと。今の職場に行き始めて、いろんな問題に巻き込まれていくうちに、どんどんと自分を見失っていってしまった。今まで避けてきた自傷行為、今まで1度も出なかった発作。それが出てしまう、やってしまう。それが、当たり前になってしまった。

自分の思い通りにならない、言ったとおりにできない。なにかしら言われる。今までなら、反抗でもして対処してきた。でも、自傷行為をやることが当たり前になってしまった今、ストレスを感じると、自分を切りつけて痛めつける。それが当たり前の行動。他人を傷つけてしまうのが恐れてしまうようになってしまった今、他人を傷つけないようにするためにする手段といえば・・・。と考えた結果、自分を傷つける。痛めつける。それが当たり前になってしまった。気が付いたら、無意識に刃物を握り、自分を傷つける。それが、習慣になっていた。誰にも助けを求めず、それが唯一の自分のストレス解消法になっていた。今までは、自分に傷をつけるなんて考えたことすらなかった。最初は、自分に傷をつけること痛かった。でも、それしか自分の気持ちをぶつけるところがないと思いやり続けていった。そうすると、不思議と今まで痛いと感じていた痛みすらも、感じなくなって、痛みより、快感や、楽しさに変わっていった。それが、普通の人じゃ考えられないくらいの楽しさになっていた。周りからは、「その包帯どうした?」といわれるのが、当たり前の日常になっていった。

そのたびに、「ちょっとね」って隠してる自分がいるのが楽しさに変わっていく。その中でも、気付いてる人は、「あっ。またやったな」って気づいてしまっているのに気が付いていない自分がいた。呼び出されてから、「その包帯の下って、傷だよね?」「また、やっちゃった?」と聞いてくる人もいた。本当ならば、言いたくもなかった。言うはずもない。でも、黙ってるわけにはいかなかった。「うん。そうだよ。」「やったよ。やるしかなかったから。」と白状せずにはいられない時もあった。ばれてしまっているのだから、隠し通すことはできやしない。隠したって意味がない。そう思って白状する毎日が続いた。

あるとき、「やったら、すぐばれるんだ。」「もう隠し通せやしないんだ」と思ってしまい、堂々と隠さずに、やるようになっていってしまった。そこから、隠さずにやる。どれだけ自分を痛めつけても、誰も悲しみやしない。いなくなったとしても、誰も悲しみやしない。と思いながら毎晩のように、自分を傷つけること。それが、当たり前の日課になっていった。そして、人付き合いも悪くなってしまった。

何が良くて、なにが悪いのかの判断すらもつかないくらい自分を見失っていた。傷つけたところを隠すのが当たり前。傷つけるような機材をそろえるのも当たり前。いつしか、趣味に使っていたお金も、傷をつけるための資金にすり替わっていた。剃刀、消毒面、傷隠しの絆創膏そればかりを購入する日々が続いた。片方だけの傷つける場所が、いつしか、増えていった。それと同時に、傷つける本数も1本から2本、2本から3本・・・。と。どんどんと増えていった。周りには、「やめて。つらいんでしょ?相談にのるから。だから、いつでも言って」といわれていた。だけど、それすらも、信じられなくなっていた。「いいの。ほっといて。」「相談してもいみがない。」「解決するわけがない」と思うようになった。

そして、過呼吸発作も出るのが当たり前。自傷行為を人の前でやるのも当たり前になった。自分を殴る。自分の髪を引っ張る、自分に噛みつく。それが、当たり前。「落ち着いて。自分殴らない。だめ。自分傷つけない。」といわれても、止まることなんてなかった。なぜなら、それが当たり前だから。

他人より自分傷つけるのが当たり前だから。いくら「もういいよ。ねっ。やめよ。落ち着いて話そうよ。話はいくらでも聞くよ。」といわれても信じられるはずもない。どうせ、裏切り者だとわかっていた。周りを敵対視するようになっている自分。信じられる人なんていやしなかった。いるはずもなかった。だからこそ、自傷行為を続けてきた。もちろん、やめようとも思ったこともあったが、やめられるわけがなかった。

なぜなら、自分の手首に傷が1本もないことが当たり前ではないことに、不信感を抱いてしまっていたから。自分の目から見えるところに、傷が1本以上あることが当たり前。それが自分だと思っていたから。絆創膏が貼られていない自分の視界に入る場所が気持ちが悪かった。

普通の人ならば、自分の視界に傷のないことが絆創膏が貼られていないケガもしていないのに、絆創膏を貼ること自体が異常だから。

でも、自分は、それとは真逆。まっさらな自分の視界に見えるものが、当たり前のことではないこと。傷もあって、絆創膏もあって、包帯ぐるぐる巻きの手が当たり前だった。

だからこそ、毎日傷をつけることが安心感を抱いていた。