オープンキッチンから伝わってくる、調理中の音や香りは、食事への期待感を高めてくれるものです。音や香りといった、目には見えないものだからこそ、より一層、想像をかきたてられる、ということもあります。

 調理中の音に関して、私が印象に残っていることがあります。それは、食事に行ったトンカツ屋さんでの体験です。

 

 そのトンカツ屋さんは、地元では有名な店でした。すこし郊外にあるので、平日よりも週末に、家族連れなどでにぎわうようなお店です。私が訪れたのは平日の昼の時間帯で、店内には、ほかに2組くらいのお客様がいるだけの、比較的落ち着いた日でした。

 店内は、カウンター席とテーブル席があり、しきりなどがなく、広々としています。オープンキッチンで、作業風景がよく見える造りになっていました。カウンター席と厨房のあいだに遮るものがなく、丸見えといってもいいくらいです。テーブル席に座った私たちのところからも、なかが見えるくらいなのです。

 丸見えになっていると、なかにいる調理師もよく見え、視線が合ってしまいます。視線が合うと、なんだか気まずいように思えます。それくらい、厨房と客席が同じ空間にあるので、調理中の音も、よく聞こえてきます。その店はBGMなどがないので、なおさらです。

 

 最初のうちは、いっしょにいた人と会話もしていましたが、話がとぎれると、調理の音だけが店内に響きます。静かすぎる環境が苦手な人はいると思います。また、静かなことを活気がないととらえると、飲食店としては、よい印象とはいえないこともあります。このトンカツ屋さんに関しては、静かな店内であることがポジティブなことに、私には思えました。

 というのは、店内に響く、トンカツが揚げられている音が、神聖なものに感じられたからです。トンカツを油で揚げる音が神聖なものというと、おおげさだと思われるかもしれませんが、そのときの私は、そういうふうに感じたのです。

 神聖なものに感じたのは、揚げ油の音だけでなく、その店舗にただよう空気、もっといえば調理師が発する、職人オーラのようなものに対してかもしれません。

 

 厨房のなかには、調理師が2人と補助のような女性が1人いました。オーダーが入ると、なにも言わずに、それぞれが動き出し、準備をはじめるのです。

 ムダな動きがなく、黙々と作業する姿が、なにか大切な儀式を行っているかのように、私には見えてきたのです。そうすると、静かな店内の雰囲気も、その儀式のためにあるように思えてきます。その張りつめた空気のなかに、トンカツが挙げられる油の音が響くと、とても幸せな感じに聞こえました。

 

 揚げ物というのは、食材を高温の油で揚げるだけの、乱暴な料理と思われる方がいるかもしれませんが、実は、とても繊細な料理です。高温で食材を加熱することは、下手をすると、食材に大きなダメージだけをあたえてしまうことにもなるからです。食材のうまみを引き出し、活かすためには、職人の感覚のようなものが必要だともいえます。

 職人という言葉がネガティブなものにとらえられることがありますが、それは、ほんとうの職人の能力が理解されにくいからだと思います。数値化できない価値というのも、絶対あると思うのです。