前回からの続きです。ところが大政奉還によって状況が一変
します。尊王攘夷派を誅戮しまくっていた諸生党は、新政府軍に
よる討伐対象となり、市川ら500名は水戸から脱出して会津藩に
合流。武田耕雲斎の一族は諸生党によって幼い子供に至るまで
ほぼ皆殺しにされてしまいましたが、孫の武田金次郎だけは、
越前で斬首ではなく遠島を申し渡されて、小浜藩預かりとして
生存していました。王政復古した朝廷は、金次郎の罪を解いて
帰藩を命じるとともに諸政党追討の勅諚を与えたので、復讐の鬼
と化した金次郎らは、白昼堂々と諸生党と関係のある家に
押し入り、家の者を斬ったり突いたりして皆殺しにしました。
この報復というのも無茶苦茶なもので、諸生党とは関係のない
家にまで行われたため、水戸藩内は大混乱に陥りました。
【幕末の水戸藩】の著者の山川菊栄(1890-1980)は、母の
青山千世からこの大混乱を[子年(ねどし)のお騒ぎ]として
伝え聞いていて、その内容を事細かに書き留めていますが、
彼女は武田金次郎について批判的で「無知で幼稚」だとか
「冷たく歪んだ心」という表現をしています。
会津開城後に行き場を失った市川らの諸生党は、北上する金次郎
らの隙をついて水戸城を奪還しようとして、残っていた藩士らと
戦争になります(弘道館戦争)。これに敗れた諸生党は壊滅、
逃亡して江戸に潜伏していた市川三左衛門は捕らえられて、
逆さ磔という酷刑に処せられました。剛腹な人物であった
らしく、拷問にも全く音を上げず、処刑前夜の食事の鰻飯も
普通に平らげ、処刑直前には「勝負はこれから!」と叫んだと
伝えられています。あっち陣営の悪あがきを見ているみたいで、
自分は嫌なんですけどね。この逸話。こうして報復に次ぐ報復で
藩内の有為な人材があらかた殺されてしまった水戸藩からは、
明治新政府で要職に就く人物は輩出されませんでした。
徳永真一郎(1914-2001)という作家が書き留めている逸話と
して、大正4(1915)年に東京市で行われた100歳以上の長寿者を
表彰するという式典に、市川きし子という表彰者があって、
それが市川三左衛門の妻だったという話が紹介されています。
年代が徳永の生年と噛み合わないので、先輩の記者や報道業界に
伝わっていた話を紹介してくれているのだと思いますが、式典を
取材していた東京日日新聞の記者は宇都宮出身で、市川三左衛門
が何をやった人物かという事もよく知っていたため、魂を奪われ
たような表情で老婆が話す口元の動きを見つめていたという文章
で締め括られていました。