おつかれさまでした。並行で別プロジェクト単体の企画もあるん
だ。ぶーんの日かなとは思ったものの、帰宅してからその企画
について知りました。どこでもドアに加えてタイムマシンもない
ため、後追いながら確定された空振りデーでした。過密日程?
故障や体調不良には重々お気をつけ下さい。
前回からの続きです。可逆性のなさという事で思い出すのは、
前に書いた事のある「弁当はなんで食うたら無くなるんやろ?」
という哲学的懐疑で、時間概念的な事を考慮に入れると、可逆性
がないという事自体は、現実世界には後戻りはないというある種
の信念に支えられているのかもしれないです。
③の解なしというのも、可逆性がないのに加えて経験からも
乖離傾向にあると思われます。0で割ったところ、分からなく
なった。元は18だったでしょ?今となってはそれすらも分かり
ません。えっ?みたいな。具体的に置き換えるとしたら、一体
どういう行為なのか気になりません?おそらく元々の記憶が
ほにゃららになるような、ゲフンゲフン。
これも以前に書いたかもしれません。数学者の森毅(故人)が
小学生に分数の足し算を教えていたら、1/2+1/3を5/6ではなく
2/5と答えた子があって、理由を尋ねたところ、自分の家は2人
兄妹でそのうち男は1人、隣の家は3人兄妹でそのうち男は1人、
合わせると5人のうちの2人が男だから2/5になると答えたという
逸話。そういう説明であれば間違いとは言えないと、昔読んだ
森先生の本に書いてありました。ここで話は前回の書き出し部分
に戻りますが、数式の立てられ方や計算の正しさというものが、
数式以外の記号に依拠していて内在的なものではないと思うのは
こういう理由でして、修辞上の虚構であるかもしれない概念が、
しれっと数式化されていたりしますからね。「絶対」とか「無」
とか「等しい」等々。
この18÷0=?という設問によって考えるための材料が補充され
て、最近の匿名掲示板の話題の中では自分的に大当たりでした。
感謝感謝。