台千十九話 | 台所放浪記

台所放浪記

料理とか随想とか

おつかれさまでした。並行で別プロジェクト単体の企画もあるん

だ。ぶーんの日かなとは思ったものの、帰宅してからその企画

について知りました。どこでもドアに加えてタイムマシンもない

ため、後追いながら確定された空振りデーでした。過密日程?

故障や体調不良には重々お気をつけ下さい。

 

前回からの続きです。可逆性のなさという事で思い出すのは、

前に書いた事のある「弁当はなんで食うたら無くなるんやろ?」

という哲学的懐疑で、時間概念的な事を考慮に入れると、可逆性

がないという事自体は、現実世界には後戻りはないというある種

の信念に支えられているのかもしれないです。

 

③の解なしというのも、可逆性がないのに加えて経験からも

乖離傾向にあると思われます。0で割ったところ、分からなく

なった。元は18だったでしょ?今となってはそれすらも分かり

ません。えっ?みたいな。具体的に置き換えるとしたら、一体

どういう行為なのか気になりません?おそらく元々の記憶が

ほにゃららになるような、ゲフンゲフン。

 

これも以前に書いたかもしれません。数学者の森毅(故人)が

小学生に分数の足し算を教えていたら、1/2+1/3を5/6ではなく

2/5と答えた子があって、理由を尋ねたところ、自分の家は2人

兄妹でそのうち男は1人、隣の家は3人兄妹でそのうち男は1人、

合わせると5人のうちの2人が男だから2/5になると答えたという

逸話。そういう説明であれば間違いとは言えないと、昔読んだ

森先生の本に書いてありました。ここで話は前回の書き出し部分

に戻りますが、数式の立てられ方や計算の正しさというものが、

数式以外の記号に依拠していて内在的なものではないと思うのは

こういう理由でして、修辞上の虚構であるかもしれない概念が、

しれっと数式化されていたりしますからね。「絶対」とか「無」

とか「等しい」等々。

 

この18÷0=?という設問によって考えるための材料が補充され

て、最近の匿名掲示板の話題の中では自分的に大当たりでした。

感謝感謝。