今年の大河ドラマ【光る君へ】。第2回までのところ、
けっこう面白く見ています。主人公の紫式部は、有名なわりに
【源氏物語】を執筆したという他は伝わっていない事が多い
ので、史伝と時代小説の違いのように、史実に忠実という視点に
こだわらなければ、次回以降も楽しめそう。
大河ドラマ化してほしい人物の投票で、何故かやたらと人気が
あった卑弥呼よりは【アシガール】やこっちの方がいいです。
作家の陳舜臣(故人)が書いていた事ですが、三国時代の五斗米道
という道教の教団について書いた作品で、その指導者である
張魯(?-216)という人の母を登場させた際に、絶対にいたので
創作した人物ではないものの、張魯の母という名前では物語に
登場させたり台詞を言わせたりさせられないので、架空の名前を
付けました。古い時代の女性の本名は、ほとんどの場合伝わって
いない。と。
紫式部や清少納言、小式部内侍らもこれに該当すると思います。
あったに違いないんですけどね。残念な事に伝わっていません。
【光る君へ】のまひろ(後の紫式部)が、母を殺害された事に
ついてだんまりを決め込んだ父に対して反発を覚えたり、
代筆業をして文章を書いている時だけが本当の自分でいられると
語っている場面は、いきなり未来人全開のようであって、実は
そうでもないのでは?というのがドラマを見た自分の感想です。
こういう共同体の慣習や暗黙の了解等を一切無視して突然発生
したかのような個人意識を、共同体主義からの個人主義批判
においては[負荷なき自我]という呼び方で揶揄したりするん
ですけど、あるでしょう。個人なんだから。
まひろや卑弥呼が「この世界は、自由、平等、平和であるべき
なのよ」とか言い出してしまったら、自分も首をかしげますが、
古い時代の名前が伝わっていない人にも、どういう次元でそれを
自覚していたとか、家や社会との兼ね合いでどうだったかは
別として、自我はきちんとあったと思っています。
この話題のまま、次回に続きます。