台八百五十八話 | 台所放浪記

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料理とか随想とか

今年の大河ドラマ【光る君へ】。第2回までのところ、

けっこう面白く見ています。主人公の紫式部は、有名なわりに

【源氏物語】を執筆したという他は伝わっていない事が多い

ので、史伝と時代小説の違いのように、史実に忠実という視点に

こだわらなければ、次回以降も楽しめそう。

大河ドラマ化してほしい人物の投票で、何故かやたらと人気が

あった卑弥呼よりは【アシガール】やこっちの方がいいです。

 

作家の陳舜臣(故人)が書いていた事ですが、三国時代の五斗米道

という道教の教団について書いた作品で、その指導者である

張魯(?-216)という人の母を登場させた際に、絶対にいたので

創作した人物ではないものの、張魯の母という名前では物語に

登場させたり台詞を言わせたりさせられないので、架空の名前を

付けました。古い時代の女性の本名は、ほとんどの場合伝わって

いない。と。

 

紫式部や清少納言、小式部内侍らもこれに該当すると思います。

あったに違いないんですけどね。残念な事に伝わっていません。

【光る君へ】のまひろ(後の紫式部)が、母を殺害された事に

ついてだんまりを決め込んだ父に対して反発を覚えたり、

代筆業をして文章を書いている時だけが本当の自分でいられると

語っている場面は、いきなり未来人全開のようであって、実は

そうでもないのでは?というのがドラマを見た自分の感想です。

 

こういう共同体の慣習や暗黙の了解等を一切無視して突然発生

したかのような個人意識を、共同体主義からの個人主義批判

においては[負荷なき自我]という呼び方で揶揄したりするん

ですけど、あるでしょう。個人なんだから。

まひろや卑弥呼が「この世界は、自由、平等、平和であるべき

なのよ」とか言い出してしまったら、自分も首をかしげますが、

古い時代の名前が伝わっていない人にも、どういう次元でそれを

自覚していたとか、家や社会との兼ね合いでどうだったかは

別として、自我はきちんとあったと思っています。

この話題のまま、次回に続きます。