現在の福岡県のうち福岡市を中心とした筑豊から北西部は、江戸時代まで筑前黒田家の領地でした。
関ヶ原の合戦以前は、あの小早川秀秋が筑前の領主でしたが、関ヶ原合戦の功績で小早川秀秋が岡山藩へ移り、替わって黒田長政公が領主になり、以降明治維新までつづきました。
江戸時代になり、少しずつ安定した世の中になっていく一方で、お家の勢力争いもあったようです。
長政公には男子4人、女子3人の子供があり、長男の忠之公が福岡藩を継ぎました。
次男以下はいはゆる冷飯暮らしになったわけですが、父長政公が亡くなる際の遺言で、3男の長興公に秋月5万石の領地を与えられ、黒田家支藩として1624年に秋月に入りました。
支藩とはいえ大名になったので、将軍家光公に謁見のため江戸へ向かおうとするのですが、福岡藩主忠之公と長興公の間には確執があり、忠之公側の妨害があったものの細川忠興公の支援で江戸へ行けたと記録があるようです。
そのように御家騒動はありながら、島原の乱が起きたときは秋月藩も戦功を上げ、その際の訓練の模様が 秋月鎧揃え というカタチで残っています。
秋月鎧揃えの行事は、行列や大筒、演武などあり、行列が始まる10分くらい前から参加者がスタート地点の目鏡橋方面に向かう場面に遭遇しました。
すれ違うバイクの人もビックリしたのでは。。
兜が大きい。。
甲冑のヒレなどが触れるカシャカシャという音が聞こえ、臨場感があります。
行列はこれからですが、集合の様子でも満足します。
12時半になり、行列がスタートする時刻ですが、遅れているようで、20分程度過ぎて長興公の姿が見えて来ました。
馬上の先頭は、秋月藩黒田家当主15代目長幹氏。
後続はその御子息たち。
家臣役の武将がつづきました。
兜の形が色々あって面白い。
このあと途中で催しがあり時間が空くので、先にゴールの秋月中学校で待機。
ここではかみさんが上で観覧。
私は下で。
いろんな行事は中学校校舎前の舞台で。
最初に、秋月藩祖の長興公を祀る垂裕神社(すいようじんじゃ)の方へ低頭。
垂裕神社
黒門をくぐった奥の石段を登った先に垂裕神社は あります。
このあと来賓の挨拶など。
実は時間がかなり押し、もうすぐ14時。
このまま観るのはキツイので昼食へ向かいました。
垂裕神社の御朱印。
デザインがいいなと思います(^^)。