幕末の志士 高杉晋作が眠る東行庵へ行ってきました。

 

 

 

高杉晋作は1839年に萩で長州藩上士の家柄で生まれました。

 

それから14年後の1853年の黒船来航があり、幕末と呼ばれる時代になりました。

その頃の高杉晋作はまだ学生で藩校明倫館で修行の身。

吉田松陰の松下村塾に入るのは、さらに3年後の1857年です。

 

江戸詰めのあと藩命で上海に渡ったのは1862年。

帰国後、上海の街のように日本もヨーロッパ列強国に植民地化されるのを危惧したのを表したのが英国公使館焼き討ち事件。

いはゆる外国人を追い払う「攘夷」の魁でしたが、その後1863年5月には長州藩は関門海峡を通る外国船を砲撃し始めました。

のちに報復措置として、アメリカ、オランダ、イギリス、フランスは軍艦から下関を砲撃し、長州藩は負けます。

 

 

東行庵の高杉晋作像

 

 

 

 

列強国に負けたことで、高杉は闘う組織・奇兵隊を創ります。

長州藩の武士だけで構成される正規の部隊に対して、武士だけでなく商人や農民なども参加したので、反対語で奇兵隊としたそうです。

 

 

 

 

 

 

安倍さんが建てたのかな?

 

 

 

 

 

 

 

高杉晋作 辞世の句

 

面白き

こともなき世に

おもしろく

 

下の句は最期を見届けた野村望東尼の句

 

住みなすものは心なりけり

 

 

 

 

 

 

資料館は書簡を中心に展示。

写しではなく直筆なのがいいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

菖蒲が見頃の頃でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高杉墓所へ。

 

 

墓所は右手ですが、この碑の左奥に進むと

 

 

 

 

 

高杉の別の銅像がありました。

 

 

 

 

 

 

 

高杉銅像の目の前には山県有朋の銅像も。

山県は奇兵隊の軍艦を務めました。

軍艦というのは監査役。

 

 

 

 

 

 

 

高杉の墓

 

 

 

 

 

 

 

高杉は奇兵隊を創設するも、藩内の別の部隊である撰鋒隊と衝突した責任を追われ退任。

要は武士の部隊である撰鋒隊と町人中心の奇兵隊という、身分の差が生んだ事件。

長州藩にもそういった気持ちの問題があったんですね。

自身が創った奇兵隊をそのようなカタチで抜けたのは辛かっただろうな。

 

 

 

 

 

 

 

世の中では、いはゆる八月十八日の政変があり、長州藩は会津藩、薩摩藩に朝廷側の政治の実権を握られてしまいました。

高杉も身を隠しました。

 

その政変があった翌年の7月には、いはゆる禁門の変が起こります。

その後幕府は長州藩を征伐すべく追討令を出します。第一次長州征伐です。

 

高杉はさらに逃れ、10月には野村望東尼の平尾山荘に匿われます。

望東尼は多くの志士を支援したようです。

 

その後下関に戻った高杉は12月、下関長府の功山寺で挙兵。

実権を握った高杉ですが、再び命を狙われる身になり、妾うのとともに逃げたりします。

 

薩長同盟に関わったり、第二次長州征伐で長州藩を勝利に導くなど活躍した高杉ですが、病気には勝てず。。

 

高杉晋作は1867年5月17日、27歳で病没。

 

 

 

 

 

うのもすぐそばに眠っています。

 

 

 

 

 

 

他にも多くの奇兵隊隊士が眠っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古川薫さんの句碑も。

 

 

 

 

 

 

東行庵は元々は山県有朋の別荘でしたが、それをうのが譲られ、高杉の菩提を弔うかたちになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近くにある東行庵からちょっと車を走らせたとこにある奇兵隊隊士の陣屋跡。

 

 

 

 

 

 

 

名も無い隊士の銅像ですが、口をへの字に結び空を見上げるこの銅像、好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日は天気がホント良かった(^^)