今日川端康成の小説『雪国』を読了した。
かの有名な物語冒頭の台詞「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という名文が長年気がかりになっていたので、ついに二日前から『雪国』を読み始めた。
二日もかけて読んだ甲斐があったほど、これは良書だと心から感じた。
ストーリーの流れはそこまで期待させられる内容では無かったものの、その文体、特に川端康成の文章表現に圧倒された。
読者にそっと、温かみのある語りのような雰囲気が終始一環として漂っていたと言える。
最近俺はフランス文学モノばかり読んでいたので、その難解な文体に飽き飽きしていたところに、この『雪国』も読み始めたので、実にいい気分転換になったといえる。
物語の舞台である温泉宿での暖かさに惚れて、俺は近所のスーパー銭湯に来てしまった。
『雪国』とはかけ離れたような場所だが、今は冬だし、なんとなくあの『雪国』からの表現が体に今もなお響いているので、あの感覚を忘れないように、実際に公衆浴場でお湯に浸かってみることで、もっと深くあの雰囲気を味わいたかった。
『雪国』では主人公である島村が風呂に浸かって、「いい湯だなぁ、アハハ」と口実するようなシーンはない、人物描写よりも、風景描写の方が俺はグッときた。
だから俺が風呂に浸かって、島村のような心情に触れるようなことはなかった。
そして思うに彼が滞在していたところはおそらく静寂だったに違いない。ただ聞こえるのは自然の音、そして文中しきりに現れた、蛾や蜻蛉などの生命体のけたたましさが漂っていたに違いない。
古き良き日本が再現されているようであった。
それに比べあそこの銭湯では、子供たちが駆け巡り、親は怒号を鳴らし、サウナのおっさんらは政治の話で持ち上がり、露天風呂のテレビではぐっさんがラグーナ蒲郡を活性化させていた。
島村も同様東京人であるから、普段は今の俺のように、都会の喧騒さに辟易していたに違いない。
だからそうして雪国に行き着き、駒子に出逢ったのだ。
川端康成、なんてロマンチストなんだ。
俺は熊本に行ったってなにも書けなかった。
書いたことと言えば、論文の煩わしさ、ラドン温泉の鋭い温度の話とか、不満話ばかりだった。
もう少し文章表現を身につけたいな、普段から気を払おう。
いい湯だったな。
だからどうしたってことだな、勝手にしてくれよと言われそうだ、ここから発展できるよう訓練しよう。