最近、世界・日本ともに大荒れの情勢だが、久しぶりに記す題材は、あえて今、問題になっている熊にしようと想う。
今年になって、例のOSOが仕留められたかと思ったら、記録史上最も多い熊による人身被害。
理由はドングリなどの餌が不足しているとの説が言われているが、私の近所では普通にドングリは落ちている。もっとも奥山高山での話なのだろう。
人を襲う理由は様々考えられるが、皆さんもご存知のとおり、最近は熊被害伴う、駆除の増加、それに対する行政や猟友会への抗議電話も増加といった現象が起きている。
これを解決する策を提案したい、というより記したい。今まで誰も言っていなかったことと思う。
初めにこれらの熊被害の元凶について私論を述べたい。
まず日本が明治になったころ、江戸時代の狩猟に関する厳しい制限がなくなり、補殺される野生鳥獣が増加。さまざまな生き物が激減あるいは絶滅する憂き目に見舞われた。
狩猟に関する法律ができても、そのモラルや風土慣習、貧困などにより、昭和になっても生態系の保護はあまり大事にされなかったと言って良い。
これは何も狩猟だけに限らず、商業においても同じで、公害等による環境汚染はこれの比ではない。
そして戦後の林業政策、雑木林等の広葉樹林帯を針葉樹林に変え、山の環境は激変した。野生動物にとってはより過酷になったと言えるだろう。
このような人間の所業により、熊も含めた野生動物は激減した。
(近年、猪がいなかったと言われる地域で猪が確認され騒がれているが、明治期に姿を消しているだけの場合も多い。)
しかし現在、鹿猪を代表に数が増加、人里への被害もここ20年、増加の一途を辿る。
そして、今年の熊被害。
ここ10数年、鹿猪は駆除が叫ばれ、それらの増加とは対象的に、駆除を担う猟師は減少している。
猟師は戦後の高度経済成長期に最も多くいたが、それは当時高級品だった鉄砲を、国民が豊かになり持つことが出来た証明でもある。
しかし現在、戦後アメリカ仕込みの銃規制が70年かけてどんどん強まり、銃を持つのは犯罪者予備軍といった具合に警察の取り締まりが強化され、一般に持つことは大変厳しいといって良いだろう。
世界的には、銃規制が厳しい国=権威主義国家といった向きがあるが、それは市民によるクーデターを防ぐために他ならない。戦後、アメリカ(GHQ)への反乱をおそれ、猟銃も含めた武装解除を日本国民にさせたのはそういうわけがある。
また、その猟銃の使用も厳しく規制され、北海道ではヒグマ駆除を行ったハンターが銃を取り上げられている。一発アウトの規制は、警察がいかに銃を市民に持たせたくないかの現れでもある。
つまり今現在、日本で猟師はなることはとてもハードルが高いということだ。なることも難しいが、3年おきに許可と免許の更新があるなど、続けるのはなお難しい。また昔と違い、熊の胆の売買が禁じられ、肉を売るのにも専門の解体施設が必要。毛皮も好まれない今、猟師を生業としていく事は、不可能に近い。
猟師が減れば、天敵のいない野生動物は増え、それらによる捕食も増し、歪な山の生態系が出来上がる。
勿論、なぜ警察が銃規制をより厳しくしていったかといえば、銃犯罪が起きるたびに、警察批判を行う者が大勢いるからである。私は影ながらそのような者達を馬鹿者と思っている。
年間交通事故死亡者は銃による死傷者の100倍以上にのぼるが、自動車免許発行の元締めである警察批判をする馬鹿はあまりいないだろう。どんな性格・経歴でも自動車免許は取れ、飲酒・煽り運転はなくならない。そのような現状でも、免許制度は老人に対してと、教習所存続のために準中型免許が新しくできたことくらいしか変わっていないではないか。
重さ1トンを超える鉄が時速60キロで走る。これは200年前の人間が見たら、凶器そのものだろう。火縄銃なら数人、車なら数十人は殺せると戦場の人間は考えるのではないか。
事実、フランスのテロ事件で大型トラックが使われて70人以上が死傷していたと記憶している。
しかし、現代日本人に自動車が凶器になりうるとの意識・認識は乏しい。というより欠如している。
その一方、200年前の火縄銃と、命中精度・威力共に大差ない猟銃は、今の日本人には大変な凶器と認識されている。
しかし、この二つに言える共通点はどちらも人間の生活の為の道具に過ぎず、人間が使い道を誤ったときに凶器になるということだ。
この認識を国民がしっかり持たないと日本人の平衡感覚は失われたままだと言いたい。
そして、話は脱線したが、今回の熊駆除を批判する人、批判者を批判する人、両方に平衡感覚の乏しさを感ずる。
熊そのものが殺されることが可哀想なとど言って抗議電話している馬鹿者には言いたい。
どんな生き物であっても殺されることは可哀想だ。私もそう思っている。しかし、人間は有史以来、他の生き物を捕食してきた。補殺道具の進化は人類史の進化と重なっている。
ヴィーガンは別だが、可哀想だから殺すなと言って、牛や豚を食べているような人の議論は相手にする価値がない。はっきり言って狂った意見だ。
欧米に見られる、やたらと鯨と海豚の知能の高さをあげ、補殺に関して、非難する考えとよく似ている。
また、ヴィーガンにも健康的な懸念があることを伝えたい。
おそらくひと昔の日本人からは、可哀想だから殺すなと言った批判は出なかったろう。それは家で鶏やウサギを飼い、それを殺して食べるといった当たり前の生活があったからと思う。
屠殺はひとしく残酷だ。しかしそれを経て、肉に変わっていく様子をみんな知っていたのだ。
既に屠殺生肉された状態の肉しか知らず、そのような肉をスーパーで買って食べいる今の人間は、その意味で現実感覚に乏しく、一番嫌な部分を自分では知らずに、ただ単に可哀想、残酷だと述べる感覚は、ある意味狂っていると考えられるかもしれない。
おそらく江戸時代の穢多差別と共通するところが、これにはある。
ここで話を熊駆除に戻す、当然のことだが、殺すことにより数は減る。(熊そのものと熊被害)
山などの自然環境を変えてきた人間は、野生動物に与えてきた苦難を考えずに、自分達に被害が出るとすぐに殺して解決しようとする。
これは今のイスラエル、パレスチナ問題と共通するところではあるが、それはさておいて、
忘れてはならないのは、日本で多くの生き物が絶滅してきたという事実だ。ニホンオオカミ、エゾオオカミ、ニホンカワウソなどはここ100年の間で、乱獲により姿を消した。
ツキノワグマやヒグマがそうなるとは思わないが、安易な駆除の意識は、オオカミが駆除された当時の意識と何も違っていないのではと感じる。
しかし、駆除批判派の餌をまいて山に還す、人間との棲み分けといった案にも納得できない。
麻酔銃が厳しく規制され、その従事者が極めて少ない点は法律改正すべきだと思うが、罠にかかるクマが全てではない。歩く熊に麻酔銃は現実感に乏しい意見だ。
また人間との棲み分けという議論も具体性がない。
仮に針葉樹林帯を広葉樹林帯に変えるとしたら、日本中で大規模土木工事が必要になり、相当の予算が必要になる。
私も材木にならない杉林を見て、うんざりする時があるが、今更それをブナに変えるのは無理と言った話で、変わるにも数十年かかる。
また、駆除そのものを行わないといった意見は、熊の出ない地域か、家から一歩も出ない者の意見として、もしそれを認めるならば、今の銃刀法を改正して、一般の市民にも自衛する権利を与えないと、熊に素手で立ち向かわねばならなくなる。
そこで、私の意見として、非殺の熊駆除を勧めたい。
今の駆除は民間の組織である猟友会に一任されている。それらは高齢化が進みその負担も大きい。
また、自治体や警察はその責任を猟友会に背負わせているといってよい。
そして駆除は当たり前のことだが、殺して排除する形が殆どだ。
しかし、殺して駆除することが、熊による人間への被害対策にどこまで繋がっているか疑問に感じる。
里に現れた熊は殺されるが、奥山にいる熊が里に降りた熊の運命を知るはずがないからである。
そこで、私の案は、里に降りる前の段階で人間の恐怖を理解させるというものである。
具体的には、林道などを常時見回って、熊を見つけたら、すぐさま非殺傷のゴム弾・ビーンバッグ弾などで撃ち、痛みによって恐怖を与えるという方法だ。
熊の方から人間を避けるようにする。
これには、既存の猟友会ではなく、環境省か地方自治体の公務員として、自然保護官・森林レンジャーのような専門職を育成し、行わなければならない。そうでないとあまりに危険が大きい。
それらが常時、森林や山を監視して、生き物が里に降りてくるのを防ぐ。
住宅地や畑に熊が降りてからでは遅い。それでは殺さねばならなくなる。
人は危険な生き物だと熊が認識すれば、里に降りてこなくなり、そうなれば、殺さずとも済む。
しかし、この熊に非殺傷弾を撃つというのは、怒らせて反撃される危険もあるため、現在の公道発砲禁止の法律を改正するなどして、車両の中から撃てるようにしなければならない。
こうすれば、車そのものを避けるようにもなる。
また、二人一組で熊鈴をつけ歩き、姿を現した熊を撃つ。それを一度経験した熊は鈴の音を聴いたら離れていくのではないか。
右翼の街宣車のごとく、ラジオを大音量で流して車で見つけた熊を撃つ。こうすれば、ラジオを聴いた熊は、、、
まぁこんな考えは、現実にはならないだろうが、私の考え着いた熊対策は駆除と放任の折衷案といったところでしょうか。個人的には悪くないと思うのだが、もし良いと思う方がいたら広めていって下さい。
以上、今までで1番の長文でしたが、なかなか現実の諸問題の解決は難しいですね。
来年には、今年の熊被害は忘れられていると思いますが、猟師の高齢化が著しい中、10年後はどうなっているのか、、、考えても仕方がないですね。