(171) 「この世界の片隅に」と出逢って | 静寂炉辺

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数年前からコピーで出している個人ペーパー「静寂炉辺」の記事を中心に、日頃考えていることを散漫に書き綴りたいと思っています。

静寂炉辺に加えて、独り言、一戸弁の昔話なども、気が向いたら書きます。

愛用の相田みつをさんの日めくりカレンダーに『その時の出逢いが 人生を根底から変えることがある よき出逢いを』という文言がある。

 「この世界の片隅に」という こうの史代さんの漫画3冊と出逢わせて戴いたのは、つい先月のことである。実は、前々から娘に勧められてはいたのだが、私は恥ずかしながら漫画というだけで手に取る氣になれなかった。(昨年になって「坊主Days (杜康潤)」と出逢って漫画に対する考え方が一変したばかりなのである。)

物語は昭和9年1月の冬の記憶から始まっている。読み始めて、当時の暮らしの様子がありありと描き出されているのを感じ、「この作品の作者はきっと私よりもはるかに歳上であるに違いない」と思い込んでいた。しかし、実はこうのさんは倅と同じ歳だという。まず、このことに少なからず驚いてしまった。

何であれ、人が何かをやろうとするとき、どのような立ち向かい方をするのかという覚悟と姿勢が問われるものであると思うが、作品を通してこの作者から教わることが非常に多かった。

この話を描いていくにあたって、こうのさんはとにかく丹念に資料を探し、当時を知る方から一生懸命に話を聞いたに違いない。小さな手がかりも蔑ろにすることなく、丁寧に納得するまで調べることによって、今となっては面影が見られないほどに様変わりしてしまっている事柄までも克明に再現している。それが登場する人々に命を通わせ、息遣いまで感じさせるように描かれている下地になっているのであろうと思う。

あの当時は、現代と比べると物が少なかった。特に戦争が始まってからは物が不足して不便なことが多かったのであるが、人と人との繋がりがしっかりとしていて、隣近所の結びつきも強く、困った時はお互いさま、と助け合い、支え合っていたような記憶がある。

作中にも描かれている「隣組(昭和15年 作詞 岡本一平)」の歌は私の子どもの頃、盛んに歌われていた。地域組織、連帯責任制のもと、政府の通達や生活必需品の配給などを行う際に歌われたもので、子どもからお年寄りまで誰もが口ずさんでいたものだ。また、作中に描かれている建物疎開や食事の場面に出てくる食べ物、衣類など、懐かしいな、と感じ、ああ、こんなこともあった、と記憶が呼び起こされるものが数多あって、思わずため息が出たりした。

戦前、戦中といえば暗い時代、よくない時代、懐かしんではいけない時代のように思う世代もあろうが、ほぼ同じ時代を生かして戴いてきた世代の者が振り返ってみるならば、あの頃も決して暗く陰鬱なばかりの時代ではなかったと思う。「狭いながらも楽しい我が家」と歌われる歌もあるように物がないなりに工夫して暮らし、大変な中に楽しみを見つけ出し、前を向いて歩み、顔を上げて日々を過ごしていたのであった。確かに辛いことや哀しいこともあったが、じっと俯いて何事も忍従で過ごしたという暗く重苦しいばかりの時代であったわけではないのである。

そうした日々の何氣ない暮らしを本当に何氣なく描きながら、日常の中にあるかけがえのないものにきちんと光が当てられていく。読み進める中で、ありふれた日々の中にあるかけがえのないものに改めて氣付かされる… 描かれている者たちに命が宿り、生きて血が通うものへと変わり、絵だけで描かれている筈が、その風景の音や風の匂いまでも感じられるかのような思いに駆られ、うまい言葉が見つからないが、本当に心を動かされた。

「これは父さんの知っている時代が描かれているから、きっと面白く読めると思うよ。」と娘に何度か言われていたというのに、何でもっと早く読まなかったのか。漫画と侮らずに早く読んでみればよかったと思っている。

年を経るにつれて、苦しいこと、辛いもの事を忘却していくように、ともすれば良い事、忘れてはいけないことさえも、うっすらとぼやけて薄れていくものなのかもしれない。しかし、この物語を辿っていく中でふと、薄れかけていく記憶の中の良い事、失ってはいけなかったものの、ほんの少しの燠に酸素が吹き込まれ、薪が足されたような氣にさせられた。そして、今、私の周囲にあるどんな機器や機材による再現よりも、この本に描かれている作者の手による物語や登場人物の息遣いや手のぬくもり、心の動きがとてもリアルなものとして感じられるようになった氣がしている。

何度も勧められ乍ら読まずにいる間に、「この世界の片隅に」はアニメ映画になり、日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞および音楽賞、キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベストワン及び監督賞、毎日映画コンクール日本映画優秀賞・大藤信郎賞、ブルーリボン賞監督賞などなど数々の賞を受けた。(アニメ映画がこのような数々の賞を受けるのは大変珍しいことらしい。)

先日、NHK特集でこの映画が取り上げられていた。映画の監督をした方はこの作品に惚れ込み、何としても映像化したかったそうである。そして、物語の世界観を損なうことが無いように、と当時を知る方々に丹念に取材し、作者の熱意に劣らない情熱を傾けたそうである。そして、監督の指名で主人公のすずの声を担当したのが、以前「あまちゃん」の主演であった「のん (当時は能年玲奈)」さん、映画を見た方の殆どが「のんさんの声はすずさんそのものとしか思えない」と評している程に奇跡的なマッチング、と言われているらしい。これこそ奇縁と言うべきか… 

冒頭の相田みつをさんの文言が脈々と生きているということを更に実感させられた、この出逢いであった。

 

初出 「静寂炉辺」 第80号 (平成29年2月15日 発行)