検証シリーズ㉚ 「日本マット界を変えた3人の外国人プロレスラー」 | DaIARY of A MADMAN

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毎日、ROCKを聴きながらプロレスと格闘技のことばかり考えています。

 ジャスト日本さん主催の「俺たちのプロレストーク vol.2」と「大プロレス飲み会」に参加させて頂いた。


今回のゲストは鈴木秀樹選手と、諸事情で(各自調査)吉田綾斗選手。


鈴木選手の縦横無尽なトークを主軸に、ブレの無い吉田選手の主張、前田日明ばりのジャスト日本さんのしゃべくりで、今回も大いに盛り上がった。


(詳細はまた次回に)



今回は、本トークショーのテーマの一つ「外国人レスラーの変遷」から、当ブログなりに、「日本マット界を変えた外国人プロレスラー、ベストスリー」(順位不動)を考えてみた。



まず1人目は、やはりカール・ゴッチだ。



力道山が1954年2月のシャープ兄弟戦(パートナーは木村政彦)で爆発的な人気を得て、日本に「プロレス」を根付かせて以来、“ガイジンレスラー” は常に「悪役」あるいは「敵役」だった。


ディック・ハットンやパット・オコーナーのように、反則攻撃をしないテクニック主体のレスラーもいるにはいたが、力道山の死後も含めて基本的に「日本人レスラー対外国人レスラー」の構図が変わることはなかった。


しかしゴッチは、そういう状況にも関わらず、1968年1月に「日本プロレスの招き」で若手のコーチに就任し、日本に移り住んでいる。これは、かなり異例のことだと思う。


1961年の第3回ワールドリーグ戦に初来日し、初戦の吉村道明戦でジャーマンスープレックス・ホールドを見舞って衝撃デビューを果たしたものの、再来日まで5年を要しており、実はさほど強いインパクトを残したとは言えなかったように思う。


むしろ、第3回ワールドリーグ戦と言えば、あのグレート・アントニオの初来日でもあり、話題はそちらに奪われてしまったのだろう。


今ではよく知られた話だが、この時にミスター、X(ビル・ミラー)と一緒に、バスを引くパフォーマンス(詳細は各自調査)で人気が出て調子に乗っていたアントニオを控え室で制裁したという話がある。


翌62年8月にはアメリカで、時のNWA世界王者、バディ・ロジャースを同じくミラーと共にリンチしたという一件も有名だが、こういったリング外のトラブルが嫌われて日本からお呼びがかからなかったとも考えられる。そして1966年に満を持して再来日を果たす。


コーチとして呼ばれたのはその1年半後だが、史実を見ても2度目の来日について語られることは少なく、何故若手のコーチに選ばれたのかを示す決定的な資料は探せなかった。


おそらく、「武道の国」とされる日本人の琴線に触れる何かがあったのだとしか思えない。そういう意味で、ゴッチは他のレスラーにはない、独自の魅力があったのだろうか?



次いで、日本マット界を変えた外国人プロレスラーの2人目は、“人間風車” ビル・ロビンソンだ。


1人目のカール・ゴッチは、リング外でそれまでの外国人プロレスラーの「常識」を変えたが、文字通りリング上で“ガイジンレスラー” の概念を変えたのはロビンソンである。



前述の通り、「(善玉)日本人レスラー vs (悪役)ガイジンレスラー」の構図が一般的な時代に、1968年の初来日から正統派の本格的なレスリングテクニックでファンを魅了し、外国人でありながら団体の看板タイトルを保持して日本人レスラーともタッグを組むなど、国際プロレスの「エース」として活躍した。


対抗団体の日本プロレスに先んじて外国人エースの座を射止めたのは、団体が求めたというよりは、ロビンソン個人の資質によるものだとしか言いようがない。


その後のミル・マスカラスやテリー・ファンクの人気はもちろん、ザ・デストロイヤーが日本に定着して日本陣営として闘ったのも、全てロビンソンの功績あってのものであり、「ガイジンレスラー=悪役」という意識を改革させた偉大な選手だと言える。



そして日本マット界を変えた外国人プロレスラーの3人目は、“不沈艦” スタン・ハンセン。


カール・ゴッチやビル・ロビンソンが日本人レスラーをコーチしたり、日本陣営に入ってエース級の活躍をしたとはいえ、基本的に「興行会社」であるプロレス団体は常に一種のルーティンを持っていた。


例えば、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの3団体時代、それぞれに「看板外国人レスラー」を抱えていたが、どんなに人気がある選手でも、年に2回ないしは3回来日するだけだった。


年間8シリーズ程度を組んで、全国を巡業するため、特に地方では「飽きられないように」毎シリーズ、エース外国人レスラーを替えるのが当たり前。だから年に3回来日するレスラーは、かなり特例だったし、大半のエース級レスラーは年に1回来ればいい方と言うか。



しかし、そういう流れが1980年代、ガラリと変わってしまった。


きっかけを作った1つは、俗に言う「長州力の“かませ犬事変”」。それまでイチ中堅レスラーに過ぎなかった長州が、メキシコ遠征でUWA世界ヘビー級王座を獲得したことで自信を付けて帰国した。にも関わらず、相変わらず日本での格付けは変わらずに藤波辰巳(現・辰爾)の下に位置付けられたことで感情が爆発し、藤波との抗争がスタートすることになる(一説にはアントニオ猪木が長州を“焚きつけた” とも言われている)。


これで従来の「日本人レスラー vs 外国人レスラー」という伝統が瓦解し、それまでは“禁断” とも言われていた日本人対決が主流となっていったのはご存知の通り。


さらにもう一つの理由は同時期、米国マットではWWF(現・WWE)がそれまでのテリトリー制を無視して全米侵攻を開始し、有力レスラーを独占契約で縛り付けたこと。その弊害として日本マットでもお馴染みのレスラーの多くが来日出来なくなってしまったのである。



この事態に直面したとき、被害が最も大きいと思われたのは、旗揚げ以来、豪華外国人レスラーが売りだった全日本プロレスだ。(事実、ハンセンとタッグを結成し、これから売り出そうというテッド・デビアスを持っていかれている)


長州らジャパンプロレス勢の参戦と離脱、天龍革命の勃発と、全日でも日本人対決が主軸になりつつあったが、長州一派の新日Uターンで話題を持っていかれてしまうのは目に見えていた。


そこで“世界の” ジャイアント馬場が選択したのは、「シリーズごとに一流の外国人レスラーを呼ぶ」のではなく、「毎シリーズ同じ一流外国人レスラーでストーリーを構成する」という手法だ。



今では、日本人・外国人問わず、ほぼ毎シリーズ同じ顔触れが揃うのが当たり前の風景だが、それを初めて実行したのは1980年代後半から1990年代にかけての全日本プロレスなのである。


そして、それを可能にしたのが、おそらく「スタン・ハンセン」の存在だったのではないだろうか。


いかにWWFが有力レスラーを独占して駒が足りないとはいえ、もしハンセンがいなかったら、馬場さんもそんな決断は出来なかったと思う。



日本人が好むプロレスを誰よりも理解し、体現できるハンセンと、それに対抗できる日本人レスラー、当時で言えばジャンボ鶴田と天龍源一郎、後の三沢光晴や川田利明ら四天王がいればどうにかなる。


そういう意味で、真に「日本マットが主戦場」という外国人レスラーの第1号がスタン・ハンセンだと言える。



日本陣営として定着していた時期のデストロイヤーを除けば、いかに日本重視と言えどもアブドーラ・ザ・ブッチャーやタイガー・ジェット・シンらが毎シリーズ来日することはなかった。


何も日本人レスラーとだけ年間契約を結ぶのではなく、外国人レスラーも全シリーズ参戦し、怪我等の保障もすれば、クオリティの高い試合を常に提供できる。


WWEのやり方を良しとしない外国人レスラーの受け皿となり、ハンセンを筆頭にテリー・ゴディやスティーブ・ウィリアムス、ジョニー・エース、ジョー・ディートン、ジャイアント・キマラ(ボツワナ・ビーストの「2」の方)、ダグ・ファーナスとダニー・クロファットのカンナム・エキスプレスなどが同じように独占契約を結ぶようになった。それが90年代の繁栄に繋がったことは言うまでもない。



同時期の新日本プロレスがWCWと、後発団体のSWSがWWFと提携してビッグマッチを開催したものの、とても成功したとは言い難く、「鎖国」と称された全日本プロレスがファンの支持を高めていったのは、実はハンセンの功績だと考えている。



今の新日本がお手本にしているのはWWEではなく、この時期の全日本プロレスなのかもしれない。




以上の理由で、当ブログの選出する、「日本マット界を変えた外国人プロレスラー」は、


カール・ゴッチ


ビル・ロビンソン


スタン・ハンセン


の3名である。




ちなみに、個人的な好みで挙げる外国人プロレスラーのベストスリーは


テリー・ファンク


ブルーザー・ブロディ


ダイナマイト・キッド


である。


(理由を述べていくと際限が無くなるので略)






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