2023/03/11 | DAIブロ

DAIブロ

2019年からから書き始めましたが、れいわ新選組からの立候補の際、ほとんどの記事を非公開としました。
私の投稿は個人の主張であり、所属する団体等を代表する物ではありません。

あの日から今日で12年なんですね。

僕は当時居住していた11階の自室で経験した事のないあの大きな揺れを感じました。テレビがテレビ台から落ちそうになるのを必死に支えながら食器棚が倒れ電子レンジが落ちた大きな音を感じ、マンションが倒れるのか?と思うほどの大きな揺れの恐怖に耐えていました。

永遠とも思える長い揺れのあと、エレベーターは止まっていたので財布と携帯電話と車の鍵を持ち階段を駆け降りました。マンションの下では多くの小さなの子どもとお母さんが泣いて立ちすくんでいました。

まだ大きな余震があったので、裏のSEIYUの広い駐車場に避難しようと皆を誘導したところ、一人動けない若いお母さんがいたので声をかけたところ阪神大震災を経験し、怖くて関東に越してきたのにと泣き出してしまった。ここは安全だからと勇気付けましたが、僕は妻の事が心配で信号も消えている中、妻の職場に車を走らせました。
道路はボコボコ。電柱は倒れそうなほど傾き、コレが現実か?とも思える光景は今も鮮明に覚えています。
無事カミさんと連絡が取れ、合流できたので、とりあえずガソリンを入れに行きました。まだ空いていましたが、絶対にヤバいとの直感がありました。
その後、コンビニに行き棚から落ちている食料品を片っ端から拾い上げ、缶詰や、弁当など3万円ほど買った。こっちもヤバくなるとの直感があった。
その後色々な所に連絡し、皆の無事を確認できたので少し落ち着こうとおにぎりを夫婦で食べお茶を飲んだ。その後どうしたかは覚えていないが、職場に行ったのは何時頃だったかな?集まってきた皆に弁当や缶詰を配った。休んだのは2日間か3日間だったかな。
自宅は電気も水道も止まっていたが、つくば市の両親のマンションは電気も水道も出たので、1週間くらいだったと思うが、そちらで避難生活をした。

福一が爆発した後、内閣府にいた友人からすぐに逃げろと電話があった。
昨年の春に亡くなった親友からだ。
外国人の家族は続々と帰国する手筈を整えていると。

そんな事を思い出しました。

津波により多くの人の命が失われ、原発事故の影響で未だ福島に帰れない人もいます。
僕はあの日の事を絶対に忘れられない。
多くの人もそうでしょう。

僕は現政府や東電、原発'ムラ'に群がる人達には原発を運営する資格も能力もないと思っている。

原子力規制委員会は原子力推進委員会と化し、再稼働ありきで全てが動いているとしか僕には思えない。
そこには多くの嘘や誤魔化しが紛れ込んでいるからだ。
原発が動く事で利益を享受する人達が主導する嘘や誤魔化しが。

エネルギー資源の高騰が続く今だからこそ、本質的な議論を政治家の皆さんや専門家に求めます。
そして彼等を選び、監視すべき我々国民にも求められているのだと思います。