アラフィフヨーガ講師ダイスケ。


俺はこういう人間だ!!

これが正しいんだ!!

お前はこういうやつだ!!


とガチガチな固定観念に囚われている、

おじさん達へ捧げる。


ゲシュタルト崩壊という言葉がある。


何かに対して、こういうものだという

意味づけ、概念が突如として失われ、

意味をなさない、よくわからない

ものになってしまうこと。


たとえば、「あ」という字を、

連続して何度も何度も書いていると、

突如として、うまく書けなくなる

ことを体験したことはないだろうか。


「る」でも「む」でもなんでも、

いいのだが、ずっと書いていると

脳がエラーを起こすのか、

日本語としての意味や読み方、発音という

概念が失われ、アラビア語とかヒンディー語

を見ているように、

なんかグニャグニャした

よくわからない形になってしまい、

書けなくなってしまう。


これがゲシュタルト崩壊だ。


僕はナルシストで、鏡が大好きだ。


めちゃくちゃかっこいいとは思わないが、

まあ悪くはないくらいには思っている、

ソフトナルシスト。


ある日、ずっと自分の姿を見ていたら、

突如として「誰だ、これ?」

「なんだ、これ?」とゲシュタルト崩壊

してしまうことがある。


目と言われるものが、二つ並び、

鼻というものが、その下にあり、

穴が空いている。


口、歯、輪郭、ほくろ???


全てが意味を失い、自我が崩壊する。


それはある意識のレベルでは、

恐怖であり、もっと上というか、

深い意識のレベルでは、喜びを感じる。


思考、価値観、固定観念も同じだ。


自分の思いや感情を、

ずっと眺めていると、

それらは崩壊し、分裂しはじめる。


こんなふうに思う自分って、なんだ?

そう思っていない自分もいるぞ。

ん?何にも思ってない自分もいるな。

それらを認識している自分は誰だ?


俺は一体、誰なんだ?

俺は一体、どれなんだ?


誰かに嫌なことをされたとする。


表層の自分は、ムカついている。

やり返してやろうか!!と怒り心頭。


もう少し奥では、

いや、怒りでやり返したら、

もっと酷いことになる。ここは我慢。

という理性が働く。


もっと奥の層では、

彼もきっと嫌なことがあったのだ。

そういう時もあるさ、と許している。


もっともっと奥では、

ただ彼は自動的にそうしていて、

僕もただそれに自動的に反応していて、

それは起きているだけだと、

認識している。


さらに深くでは、

何にも感じていない。

ただ相手や自分を眺めている。


その先は、無。



ヨーガによって、

呼吸や身体感覚を観察し、

瞑想によって、

思考や感情を観察してきたら、

気づいたこと。



俺はこういう人間だ!!

という絶対的な自分など、

存在しないということだ。


身体は食べたものでできており、

何十兆個の細胞の集合体であり、

パーツの組み合わせであり、

意識の乗り物のようなもの。


右手は自分か?

顔は自分か?


お腹の中にあるうんこは自分か?

出たら自分じゃないのか?


どこからどこまでが、自分なんだ?


価値観、アイデンティティも、

過去の情報、体験によって

擦り込まれた、偏ったものの見方。

ありのままではない。


名前、立場、肩書など、

もっと不確かだ。


離婚して、僕は夫ではなくなり、

バツイチになった。


会社員ではなくなり、

ヨーガ講師になった。


娘をもつ父は変わらない。


だが娘は僕の所有物ではない。

家も車も仕事もお金も家庭も失い、

アイデンティティは崩壊したが、

僕は僕なのだ。


所有物などないのだ。


身も心も素っ裸のフルチン野郎だけが、

死ぬまで付いてきてる。


僕たちは何も持たない、

流動的に変化し続けるものであり、

普遍的な存在だ。


現象として一時的に立ち上がった

生命という存在だ。


カラッポだからカラダ。

コロコロ変わるからココロ。


規定された自分なんて、

本当はないのだ。


融通無碍、変幻自在。


生命であり、魂であり、神であり、獣だ。


この世界を舞台に、

主役としての自分がどう考え、

どう感じ、どう生きていくか。


選択肢は無限にある。


実体はないが、

意識的であることはできる。


ヨーガは、呼吸と動きを一致させる。

吸う息で伸び上がり、覚醒する。

吐く息で緩まり、落ち着いてゆく。


真の自分で生きていくこととは、

思いと呼吸と言動を一致させることだ。


そのどれかがずれていれば、

身体、心、人生に不具合をきたすだろう。


心身魂の統一体であれ。


僕たちは、

人生に振り回される主役であり、

人生のシナリオを作る作家であり、

人生を鑑賞する観客であり、

全てを愛で包み込む神だ。


無様に這いつくばるときもあれば、

優雅に舞い踊ることもあるだろう。


そのどちらも美しい。


僕は美しくありたい。


僕たちは水に近い。

流れているからこそ、

清らかなのだ。


我々は人生の後半戦だ。

もう、いいではないか。

洗いざらい水に流そう。


すべて忘れて帰ろう

すべて流して帰ろう

あの傷は疼けど

この乾き癒えねど

もうどうでもいいの

吹き飛ばそう


    藤井風「帰ろう」より。