無の音に音を観る つづき | シンギングボウル セラピスト ハマシュウの日々是好日

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BSM認定セラピスト「ハマシュウ」です。

IT関係の仕事を引退して、セラピストとして第2の人生を歩んでいきます。

シンギングボウル(シンギングボール)を通して沢山の方々のお力になれたら嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

 
昨日も少し書きましたが、
 
『無の音』
『音を観る』
 
シンギングボウルを奏でていると時折感じるこの感覚・・・
 
 
興味深い記事を発見しましたのでシェアさせて頂きます。
 
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<観音は第3象限にいる>

何故「音を観る」と言うのでしょうか。
 
観音菩薩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9
から引用しました。

観音の由来は、梵名のアヴァローキテーシュヴァラ(遍く観る自在者)からきています。玄奘三蔵によって「観自在菩薩」と訳されたのです。

ここではまだ音は出てきていません。

中央アジアで発見された古いサンスクリット語の法華経では、「avalokitasvara」となっており、ここではじめてavalokita(観)+ svara(音)となったようです。
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しかし、何故「音を観る」のかについての説明は、ググってみても納得できる説明が見つかりません。

そこで自己流に解釈してみます。

声をして唱えるから観音経があるという解釈もあるようですが、それは短絡です。声を出さない念仏の仕方もあるのですからね。

更にググってみたら、観音様の声は「沈黙の音」という説明がありました。

「観音様の沈黙の声」
http://www.just.st/index.php?tn=index&in=307384&pan=1593&sk=U2bB3r0YW53ZfLvfFMz6L&t=1323410086

ヒントは観音経の終わりの方にありました。

「妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念」

これは、「観音様の声は、妙なる音であり、世を観る音であり、清浄音であり、海の潮のような静かな沈黙の音である」という意味です。

つまり、観音様の声は沈黙の音、観る音なのです。

でも、何故、沈黙の音が観る音なのでしょうか。何故、「音を聴く」と言わなかったのでしょうか。

沈黙の声は無音ですから聴くことは出来ません。無い音はどう逆立ちしても、聞くことができないのです。

しかし、無い音を考えることは出来ます。考えるというのは、何かの対象に付いて考えると言うことです。何かの対象に付いて考える為にはそれに先立って対象を見なければなりません。

しかし、一旦、「見たもの」については、見なくても、その記憶があれば、「観る」ことができ、従って、考えることが出来ます。つまり、想像できるのです。

つまり、光を媒介して「見た」ものは、光が無くても「観る」ことができるのです。

無い音は「聴く」ことは出来ませんから、考えることができないのです。しかし、無い物でも観ることができるように、無い音を「観る」ことはできるのです。ですから、無い音を考えることは出来るのです。

纏めると、次のようになるでしょう。

音のついては
無音→対象が無い→聞こえない→考えることはできない

見ることについては、
対象→見る
対象が無い→観ることはできる

考えることについては
観る→考えることができる
対象が無い→見ることができない
対象が無い→観ることはできる→考えることができる

無については
無音→無→対象が無い→観ることはできる→考えることができる

従って、無(音)、沈黙の声は、聞こえなくても、観ることが出来るのです。

観音の語源は「遍く観る」が「見る」ではなく「観る」となっています。

これは、沈黙の声が何を意味するのかを良く「考えよ」と言っているのです。考えるためには「観よ」といっているのです。

「何かを考える」の「何か」とは「無限の慈愛」のことです。無限の慈愛が遍く行き渡っているその様子を「観よ」ということなのです。

遍く行き渡る無限の慈愛とは沈黙の声であり、無の音ですから、「無限の慈愛を観よ」とは沈黙の声を「聴く」のではなく、無の音を「観よ」ということになるのです。
 
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「無限の慈愛を観よ」
 
そういえば、2016年にダライ・ラマ法王が来日された際にもこんなお言葉を
 
「これからの時代に必要なことは思いやりと愛、慈しみの心を少しずつ育んでいくこと。」
「幸せとは…真に求めるのは思いやりの心である。」
 
さらに、先週から通っている『ブッダの学校』では
「利多の心」の解釈が妙に腑に落ち、
 
旅のポイントで撮った写真にも意味があることがわかりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
何か深いところを教えられている氣がします。