観る側のセンサーと、踊る側のセンサー | DAG DANCE studio.

先日みたEテレの番組でこれからのお芝居の舞台、映像化か生で見るかについて演出家さんが話されているシーンがあって

 

 

「人は舞台を鑑賞するときに、目で見たり、耳、鼻、口とか五感だけで感じて観ているのではなく、全身にあるセンサーのようなものでも目の前の事をキャッチしながら観ているのだけれど、

 

映像になるとその体のセンサーで感じる部分が全てカットされた状態で共有されることになるので、、、逆に、じゃあその部分って何なのかなっていうのを今、考えていますね。」

 

といったようなお話をされていました。

 

全身のセンサーって、例えばちょっと不穏な空気をまとった人が部屋の中に入ってきただけであれ?って違和感を感じたりする時のアレですよね。

 

 

わかるなあ、、と素人ながら見てまして。

ダンスも本番を見るのと、あとで映像で見るのはやはり違うもので。(特にYouTubeとか)

そういうことを考えると「ああ、その場にいたからこその放出するエネルギーが強いシーンだったんだな」と思ったりします。

 

 

 

話ずれますけど、「滝行」。

これTVとか画面上で見る滝行と、実際にゴォォォォと迫る滝を前にしてみるのはぜんっっっぜんパワーが違いますからね。

 

実際前にすると圧倒的パワーに圧されてうまく呼吸が出来なくなったりします。←昔ダンス練習の一環で何度か体験したことがある。

それぐらい映像と実際は違ったりする場合がある。

 

話戻して、ダンスの件なんですが、

そんなことを思いながら今日の日曜レッスンを行なっていて、「自分の身体のレッスン中にどれだけ全身をセンサーとして感じながら稽古できているかな」と思いました。

 

 

意外と、どこの筋肉が伸びてるかなとか、ここ動かしたいなとか、部分的な視点で練習してしまっている場合が多いかもしれません。

 

 

観ている側は意図して、意図しなくて、全身のセンサーも使ってそれを見ているけど、じゃあ見られている側はどう意識しているのかな、と。ふと思いました。

 

 

 

例えば立ち位置関係なく目を奪われてしまう人、その人は全身のセンサーから発するもの、そういうところが長けているのかもしれません。

 

とても想いがあって踊っているし、めちゃくちゃ頑張っているのに、うまくそれが観ている方に伝えられない人、あたまで考えて踊って体で感じて踊れていないのかもしれません。

 

 

「怒っている」、「誰かを愛している」、「悲しんでいる」

感情に味がついているとして、その感情をスポイトで体に1滴垂らされたら、ダンサーさんはどう踊るのか。

 

 

落とされた1滴がとまらない墨汁のように全身に広がったように踊るのか、垂らされた腕だけがそれを感じているのか。

または落とされたことに気づかず別のことを感じながら踊っているのか。

 

 

踊ることにむずかしいことなんていらないさっ!

と、基本はもちろんそこなのですが、心動かされるダンスはなんというか、、体が虹色に変化しているように見えるし、いろんな感情の味がいたるところから滲み出ているし、それを客席で味わせてもらっているような感覚になったりします。

 

 

その方の全身がセンサーみたいになっているんだな、と思います。

 

 

ダンスではない話だけれど、

いつもダンスの写真を撮ってくださって感動するその1枚は、この「ただ見たまま」ではないところがキャッチされてそこに収められていたりする。

 

あれってどうして可能なのだろう。

撮っている人の感性がセンサーをキャッチするのに優れているからなのだろうか。。

だって撮られた写真をまた写真として撮っているのではなくて、動いている人を感じて撮っているわけだから、、やっぱりセンサーをキャッチすることが見る人の感動につながっているのだ

 

 

 

練習のときはまずは型。

それを全身のセンサーを感じながら取る。

 

イメージしてみようと思います。