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昨日のこと、職場の知人から勧められた本を読んだ。午前は、毎度バタバタするので、午後の隙間時間にページを開いた。
私は 戦記物が好きで、山岡荘八の「小説太平洋戦争」全9巻は勿論、児島譲、保阪正康、梯久美子の「散るぞ悲しき」など乱読した。但し、家永三郎の本だけは読まなかった。そして、司馬遼太郎についても、小説家として読むが、歴史家とは全く別の範疇だと考えていた。
脱線したので、本題「わが米本土爆撃・完全版」に戻る。
以前は、速読には慣れていた(つもり)が、頭の老化(つまりボケ)で時々??となる、
それでも、内容の正確な描写に引き込まれて2時間弱で読了。
正確な描写には意味がある。本書は藤田信雄が遺した膨大な日記類を長女である順子さんがまとめ、出版に漕ぎ着けたもの。
米国本土爆撃は、主人公・藤田元海軍中尉の発案が高松宮の耳に入り、具体策が研究された。
これはオレゴン州の山中(市街地ではないことが最大のポイント)へ特殊焼夷弾を投下する案だが、ドーリットル中佐を指揮官とするB-25爆撃機16機が日本本土各地(東京、横浜、横須賀、名古屋、神戸など)の空襲で主に民間に被害が出たことから、敢えて市街地を外すことを意図した作戦だった。
当時偵察機を収納できる潜水艦は、日本とフランスしかなく、実行できたのは日本だけ。
潜水艦・伊25号は昭和17年8月15日、アメリカ西岸に向け、横須賀港を出港。同年9月9日未明、零式小型水上偵察機を操縦する飛行長の藤田中尉は、オレゴン州の沖25海里のところ、潜水艦の甲板からカタパルト射出で飛び立ち、約40分でオレゴン州に入り、奥田二飛曹がエミリー山に爆弾2発を投下炎上を確認しすぐさま帰艦、翌日も2発を投下。これが太平洋戦争で、ただ一度だけ行われたアメリカ本土への爆撃。
その後、いくつかの作戦を経て、終戦。 藤田氏は厭戦から地元の土浦市に戻り金物商を営む(この時、パチンコ店経営を誘われたが「国民の利益にならない」と断った)。金物商を始めたのは、終戦後の闇市で、偶然元教え子に会ったことが切っ掛けだった。 藤田元中尉は、当時無職でこれからの生計をどうしようかと悩み考えていた。
すると教え子の母親ハルさんが活を入れた「(旧海軍の軍歴なんて何の役にも立たない)身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、あなたなら きっとできます。」こうしてブローカー生活から昭和34年に藤田商会を設立、さらに藤田金属に発展させて年商10億円超えに発展させる。藤田の実直な経営で順調に拡大し、社長となる。
だが昭和37年4月に、時の官房長官(鈍牛と呼ばれた大平正芳)から連絡を受ける。翌5月、政府首脳より都内の料亭に呼び出され、池田隼人首相と官房長官に面会、その場でアメリカ政府が藤田を探していることを告げられ、アメリカへ行けと命じられる。しかも日米関係への影響を心配した日本政府は、この渡米を一切関知しないとさえ告げられた。
藤田は戦犯として裁かれるのではないかと考え、自決用に400年間自宅に代々伝わる日本刀をしのばせ渡米したが、ブルッキングズ市はかつての敵国の英雄である藤田をフェスティバルの主賓として招待したのだった。アメリカで大歓迎を受けた藤田は自らの不明を恥じ、持っていた刀を友情の印としてブルッキングズ市に贈った。
藤田は子息に社長の座を譲ったものの、藤田の会社は詐欺に罹って倒産。窮した藤田は旧海軍の伝手により双葉電子工業での工員として勤務する事となった。
藤田はアメリカでの歓迎ぶりに恩を忘れず、昭和60年にブルッキングスの3人の女子学生を日本に招待した。ブルッキングズ・ハーバー高校の生徒が日本に滞在している際、藤田は大統領の補佐官より「貴公の親切と寛大さの賛美を」との献辞を受け取った。
>>「藤田信雄元海軍中尉殿、貴殿の厚意と惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。さらに私は貴殿の立派で勇敢な行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります」――第40代米国大統領ロナルド・レーガン。大統領は感謝状とアメリカのシンボル・ホワイトハウスの星条旗を贈った
なお、藤田はブルッキングスの女子学生を招聘するにあたって、衣類は勤務先の作業服のみ、娯楽は毎月2-3冊の書籍のみと言うストイックな生活のすえに資金を遣り繰りしている。
概要は、下記HPにもあるが、
【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<S006>昭和17年9月ー世界で唯一の米本土爆撃ー - 246blog
「わが米本土爆撃・完全版」の読後感想を、安直にネットから引用しようと、検索するも、、、
商魂逞しい市場原理主義なのか、参考になるもの皆無、、、、??
むきになって探したら やっとのことで、著者藤田信雄氏の故郷HPを見つけた;
【戦後70年特集】郷土の先人:世界で唯一アメリカ本土を爆撃した日本人「藤田信雄さん」を紹介します - 豊後高田市ホームページ
>>ブルッキングス市議会より名誉市民として永久に顕彰することが決議され、そのことを知らされたが、肺がんで死去され、奇しくも
>>爆撃の際同乗した奥田省二兵曹への「オクダ、イクゾ、スイッチ・オンダ」は、晩年85歳になった藤田信雄元中尉の死の間際でのうわ言でも漏らされていたという。
>>藤田さんの好きな言葉は「貧者の一灯」(たとえわずかでも、心のこもった行為こそ尊いということのたとえ)