けふは祝日、「昭和の日」だといふ。
確か、天皇誕生日だったと記憶していたが、いつの間にやら「昭和の日」となっていた。
「明治の日」、「大正の日」ではなく、なぜ「昭和」が祝日になったのか。
この疑問に対し、下記では
>>内閣府が定めた国民の祝日のひとつで、その説明については「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と記されている。 そして
>>大きく変動した昭和の時代を経て、現在の平和な日々があることから、「昭和の日」には昭和の時代に思いを馳せ、今日の生活に感謝をしようという意味があるとされている
折しも新型コロナ云々で移動制限の最中(さなか)、私はネグラにくすぶって負のスパイラルに陥るよりはと、車で15分程度の隣接するSMD市に出かけた。
施設内を、ボケ防止で一回りした頃、LINEグループに菜の花と浅間山の写真がアップされていた。
画面右には濃いピンクの梅なのか桜なのか、一面の黄色の絨毯と、遠くにやや霞がかった冠雪の浅間山。
河津桜の道沿いにあった菜の花と同じような風景がそこにあった。
私はふと、一茶のうろ覚えの句が気になって検索してみた。
菜の花は、多くの句で詠まれているが山を背景にした次の句を見つけた。https://www.kohei-dc.com/app/Blogarticleview/index/ArticleId/508
「なの花の とっぱずれなり ふじの山」
この「とっぱずれ」が小気味よいアクセントになるけど、同時にかの生涯背景からして、
さらに、より深く複雑な心境も 見え隠れしているのではないかと思っている。
ほかに浅間山を入れた句として、 「菜の花の 中を浅間の けぶり哉」
一茶の生涯については、人様のBLGをお借りする;http://kouyaakiyosi.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_9a3d.html
菜の花といふ華やかな世界、それに対して次々と降りかかる家族親族のトラブル、
こうした全てを経てきた一茶ならではの複雑な心境が「とっぱずれ」と表現させたのかもしれない。
>>
一茶は宝暦13年(1763)に信州長野柏原村の百姓の子として生まれた。
三歳の時に母に死別、八歳の時にやってきた継母に苛められた。
まるで偉人伝の幼児期の苦労を絵に描いたような悲惨な状況にあった。
「親のない子はどこでも知れる。爪をくわえて門に立つ」と近所の餓鬼どもに囃される毎日で、孤独な幼児期をすごす。
ただ一人の味方だった祖母の死をきっかけに、15歳で江戸に奉公に出る。
25歳のとき[二六庵竹阿]の弟子となり、3年後に師が亡くなるとその後を任され一茶と名乗る。
[めでたさも 中ぐらいなり おらが春]
諸国を流浪し、そこそこに名を上げて39歳で故郷に帰ったとたんに父が倒れた。その父は1ケ月ぐらいで亡くなってしまった。その後の12年間は、継母と異母弟と一茶の3人での遺産相続の争いが続く。この壮絶な争いでは、俳句の世界とは異なるもう一人の一茶を垣間見ることができる。
総てが解決して故郷に戻った51歳の一茶は、28歳の女性と初めて結婚する。
[これがまぁ ついのすみかか 雪五尺]
生まれ来る3人の子を次々に亡くし、その後に最初の妻も亡くした。その後に再婚した二番目の妻には逃げられた。
[やけ土の ほかりほかりや 蚤さわぐ]
三人目の妻に子供が生まれでる直前に、一茶は死んだ。文政10年(1827)11月19日一茶65歳のときだった。
[淋しさに 飯をくうなり 秋の風]