23日、木曜午後は滅茶苦茶、、、だったが、 もう忘れる、ボケることはいいことだ。
R2年1月24日、金曜、午前の重要な面談(埼玉の某院)を済ませると、一段落。
そこで、昨日盛岡のホテルにあった新聞を読んでみた;
啄木・宮沢賢治の地元ゆえに文化欄には「イーハトーブ・短歌の風」あり、どうやら高校生の作品らしい。この隣に教育スタジアムといふコラムあり;タイトルは「教育格差」
早稲田大・松岡亮二氏のインタビュー記事。同名の著書があるので、こっそり検索する;
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191116-00010000-videonewsv-soci
>>現在の日本に厳然と存在する教育格差は、萩生田氏の言う程度の努力や覚悟で簡単に乗り越えられるような甘いものではないことが、松岡氏の分析で明らかになっている
>>親の学歴や地域による教育格差は幼少時の家の蔵書数や躾けの仕方、お稽古事の開始時期やその数などから広がり始め、それが小学校、中学校、高校と上がるにつれて固定化したり、広がることはあっても、ほとんど縮小されることはないという。つまり、生まれながらにして生じている格差を、今の日本の教育は縮小したり是正したりすることができていない
記事では「今のような格差を放置すれば、一人一人の無限の可能性という資源を生かせない」
つまり、燃費の悪い非効率の社会が継続すると訴える。
では、どうしたらいいのか;
新聞記事は残念ながら抽象的で把握できないので、上記を参考とする;
>>日本の教育格差の現状を、単なる大学入学共通テスト問題や政局問題にすり替えず、われわれ大人たちは、自分たちが子どもの時にもっとこういう教育制度があればよかったとか、もっとこういう機会が欲しかったというような、自分たち目線に置き換えて議論することが必要 と。
ややピントボケ、
私の考えは、次の通り;
横並び・機会平等といふ幻想がある限り、その解決など困難なことは眼に見えている。
答えは身近にある、いやあったといふべきだろう。
不肖私が生まれる前の教育制度は、男女格差みたなものはあったかもしれないが、飛び級など、個人の能力に見合った実に合理的なシステムだったと複数の資料にある。
昭和20年の敗戦、これは終戦ではない。
何故負けたのかを思考停止したツケ、それ未だに尾を曳いている。情けないことだ。
私は、墨に黒く塗りつぶされた教科書を使った記憶がある。ガキなりに不思議に思ったが、そんなことを口にするのも憚られる空気が当時もあり、今も、周りに合わせるといった否定しがたい雰囲気・空気が当然のように支配している。
GHQといふオボッチャマの幻想・陰謀を鵜呑みにしたシンポテキブンカジン
および戦後教育指導者の敗戦だった。