前日は、一月の晦日大の月は、31日。極寒の信州佐久から、バスで上京。
ともかくも、都心の暖かさに感動。
それにしても、ブログへのアクセスの難しさ。
このアメーバでは、下書きから編集画面に至るまでのまあなんと大変なこと・・・・・・
この日は、偶々バスの車中で時間があったからスマホからのインプットだが、どうしても、途中で時間切れ、
やむを得ず、そこでつい「下書き」にすると、まあこれが余分な時間がかかること。
>>如月の語源については、いろんなサイトにほぼ同じ内容で、、http://trend7.jp/archives/2442.html
まだ寒さが厳しいので重ね着をするということから【着更着(きさらぎ)】になったという説があります。
他にも気候が陽気になる季節で【気更来(きさらぎ)】や【息更来(きさらぎ)】となった説
草木が生え始める月で【生更木(きさらぎ)】となった説。
草木の芽が張り出す月で【草木張り月(くさきはりづき)】となった説があります。>>
でも何故「如月」といふ漢字を用いたのだろうか?
この疑問については、 https://wanosuteki.jp/post_3890 によると、
>>
紀元前二世紀頃の中国の辞書『爾雅(じが)』の中に「二月を如と為す」という記載があり、古く中国で2月のことを「如」と表していたことに由来しているのです。
「如」は本来「従う」という意味で、「ひとつが動き出すと次々に従って動き出す。その動き出す状態」。
つまり、自然や草木、動物など、全てが春に向かって動き出す月、ということで「如」をあてたとされます。 >>
全てが春に向かって動き出す、、とは、いかにもこの季節を表現するのに相応しい、そんな気がする。
Wiki を見たが、どうも、私のボケ頭には全体像が把握できない。
そこで別のサイトを調べてみたら、;http://shutou.hatenablog.com/entry/2015/03/25/072311
>>『爾雅』は十三経の一つで、漢代に成立されたとされる辞書であり、現在に伝わるものとしては中国最古の3巻19篇から成る字書です。
元祖Wikipediaとでもいえばよいでしょうか。
そもそも前漢から後漢にかけて、言語学的に価値ある辞書類は『爾雅』、『方言』(揚雄)、『説文』(許慎)、『釈名』(劉熙)などが作成されています。>>
「十三経」とは、どういったものなのだろうか;
>>儒教の経書 13,すなわち『易経 (周易) 』『書経 (尚書) 』『詩経 (毛詩) 』『周礼 (しゅらい) 』『礼記 (らいき) 』『儀礼 (ぎらい) 』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝 (くようでん) 』『春秋穀梁伝』『論語』『孝経』『爾雅 (じが) 』『孟子』をいう。
さて年代、「前漢から後漢」云々については;http://manapedia.jp/text/2529
>>秦の滅亡後、垓下の戦いで項羽に勝利した劉邦は、 自ら高祖(在位紀元前202〜紀元前195)となり、漢を建国した。漢は間に新という王朝をはさみ、前漢と後漢にわかれる。漢王朝は紀元前202年から紀元後220年まで続き、約400年間安定した統一王朝となった。>>
すなわち、劉邦の時代、紀元前202以降の頃といふ訳で、この時代に文字として記録されていた、と考えるべきなのだろう。
漢字の歴史について、もう一度学び直す;http://chugokugo-script.net/rekishi/kanji.html#漢字の成り立ちと構造…「六書」
>>
秦代 | 篆書(てんしょ) |
秦~漢代 | 隷書(れいしょ) |
漢代~ | 草書(そうしょ) |
漢代~ | 行書(ぎょうしょ) |
三国六朝~ | 楷書(かいしょ) |
秦代の 篆書(小篆)については;
>>
周の王室は権威を失い群雄が割拠し、やがて戦国時代(B.C.475~B.C.221)となっていきます。こうした時代では文字は各地方によってバラバラになり異体字も増えていきました。
やがて中国全土を統一した秦の始皇帝はさまざまな制度を打ち立て、その中には文字の統一もありました。
「篆」という文字には「弯曲した線状の描画」という意味があり、甲骨文字・金文・戦国文字は「大篆」と呼ばれます。始皇帝が定めた統一文字は形が大篆より簡単なので「小篆」と呼ばれました。この小篆の字体は整った長方形に左右対称、筆画は丸みを帯びています。秦朝政府の公文書はみなこの小篆で書かれました。皇帝の詔(みことのり)に使われたので「皇帝の文字」とも言われます。 >>
そして、漢代にかけての「隷書」となるが、
>>
さらに簡略化した文字です。役所で小篆が書かれていた頃、民間では速く書けて便利なのでこの「隷書」が流行りました。隷書の時代になって漢字は完全に象形文字から離れ抽象的な符号になりました。「隷書」という字体名のいわれとしては、下層官僚の奴隷が公文書を書き写す役目を受け持ったのでと呼ばれたとか、隷書は最初正式の字体ではなく民間で用いられる字体だったのでこれを卑しんで徒隷(罪人)の書と呼び、そこからこう名付けられたなどの説があります。
小篆の丸みを帯びた線は隷書ではまっすぐになり、点や横・縦・はらいのような書き方も生まれました。>>
興味深いのは、この時代になると、完全に抽象的な符号になったといふこと。すなわち、「簡略化されて、早く書ける実用的な字」となったことを示している。
ちなみに、日本に漢字が伝わるのは、4世紀後半の弥生時代で、仏教の伝来とともに朝鮮半島からといふことで、
なるほど、我が国は昔も文字については「後進国」だったことがわかる。