僕は自分に人を見る目があるのかどうか知らないが、昨日1人の人(地元の友達で10年来の付き合いだ)に対して大方の判断を下した。
結果として僕の中でその人とは親しい付き合いをやめると決めたのだが、それを判断するのに10年もかかってしまった。
その人は、なかなかに巧みな人である。
話が理路整然で面白く、こっちの質問はジョークを交えてのらりくらりと交わし、常に会話の主導権を握る。自分の情報はあまり出さず、他人の話や本音を引き出すのが上手い。
その巧みさを、吉ととるか凶ととるかに10年を費やした。
結果、凶であると思う。なぜなら、そうする事で彼が目指すものは、その場を支配した優越感であり、それを味わうためなら他人を不快にさせる事をいとわない、そういう風に僕には見えたからだ。
ただここに思い至るまでの過程がすごく長かった。その過程を僕は今回のブログで記したいと思う。
例えばその人を交えた飲み会だ。
やはり盛り上げ上手で、みんなの本音を次々に引き出すものだから、毎回大盛り上がりだ。その人がいれば、その集まりは必ず面白おかしく終わる。
だがしかし、終わった後僕はどうにも良い気持ちがしなかった。その理由は、その盛り上がりの中で出汁にされてしまった人が大勢いて(時折僕自身も)、彼らの立場に立つと、その盛り上がりの中に不快な瞬間がいくつかあったと思うのだ。例えば、言動にツッコミをいれられたり、こう言うヘマをやらかしたと暴露話を言わされたり、みんなに言うつもりもなかった本音を言わされたり。しかもそれを言った直後必ず皆に笑われるのである。そう考えると彼の巧みさは凶である。
しかし僕は、僕自身の器が小さいのかなと疑うこともあった。つまり常に会話の主導権を握られてる事を、僕のプライドが許さない。(きっとそれも事実なのだ。認めたくないのだけども。)
そして僕のこのプライドの高さが、彼への見方をねじ曲げてる可能性があった。
つまり、彼は本当に楽しく面白く過ごしているだけであり、(実際、周りの友達は良く笑っている)そんな彼に対して僕は心の中で「すごい、真似できないや」と感じ、それがとてもねたましい。だから、彼の言動の価値を下げる様な見方を敢えてしてしまう。
その可能性まで考慮すると、彼の巧みさは吉に見えてくる。
要するにポイントを絞ると、
彼の言動が悪いのか、僕の見方が悪いのか、そのどちらかである。
そこまで整理した後、つい先日、彼がいる飲み会に行き約1年半ぶりに話をした。
その結果、これからは彼と親しくするのはやめようと思った。理由はやはり、彼の言動は良いものではないと感じたからだ。彼の巧みさへの嫉妬は相変わらずあるが、それと切り離して考えたつもりである。
以上、地元の友人である彼への判断について長々と話したのだが、そんな僕が今思うのがタイトルの言葉で
「人の善悪を厳密に判断する事はおそらく不可能であるが、厳密に近づけようと努力する事は無駄じゃない」と言う事だ。
これが僕の10年をかけた判断から得た教訓であり、図らずも記念すべき2021年の最初の投稿になってしまった。
皆さん、あけましておめでとうございます🎍