死ぬまでに一度は行きたい名所、名跡をひたすらフィーチャーしますニコニコ
今回は堺・大阪エリアその②です!よろしくお願いします!

○南宗寺

境内には戦国大名三好長慶の坐像もある
 

堺市にある臨済宗の寺院です。
戦国大名、三好長慶が父の菩提を弔うために建立しました。

三好氏はその先祖が阿波国(徳島)に土着し、そのまま地名を姓とした武士とされており、徳島県には今も三好という地名が残っています。

三好氏は代々が阿波国を治める細川氏に属する小領主でした。
戦国時代に入ると、細川氏は室町幕府における政権掌握を狙い、海を渡り京畿に侵攻します。

この際に細川軍の主力を担ったのが長慶の父、三好元長でした。
元長の活躍もあり細川氏は連戦連勝、畿内の制圧に成功し幕権を掌中におさめます。

しかし、その過程で武功を挙げ家中での影響力を増した元長は主君細川氏から次第に警戒され、ついにはその策謀によって命を狙われます。

この時、父の元長とともに堺にいた幼少の三好長慶は、細川氏の計略により蜂起した一向一揆の勢力10万人に町ごと包囲されます。
元長は「幼子の命だけは…」と長慶を懸命に逃げ落ちさせたあと、家臣と共に見事に腹を切り血天井伝説を残しました。

元長の粛清後、細川氏は自らが扇動した一向一揆を制御しきれなくなり、一揆を統率する本願寺と対立、激しい抗争が始まります。

この抗争における和睦を仲介したのが、なんと堺から脱出し生国の阿波に逃げ落ちた三好長慶でした。
その仲介の詳細ははっきりしないのですが、まだ元服(成人)も済ませていない齢十二の長慶が実際に両者の和睦を成立させ、その功績によって細川氏から三好氏の畿内への復帰を許されているという事実には驚くばかりです。

三好長慶。織田信長に先駆けた最初の天下人とも。


畿内に領土を持った長慶は、父の仇である細川氏に更なる忠勤と服属を誓い、主家のため四方に出向いて転戦の日々を送りました。

それは長慶にとって忍従の歳月に他なりませんでしたが、地道に着実に力を蓄えていった長慶は、細川氏の支配に不満を持つ勢力に呼びかけ、機を狙って打倒細川の兵を挙げます。

江口の戦いで細川氏を撃破し父の無念を晴らした長慶は、足利将軍家をも圧服する権勢を持ち畿内一円から四国に渡る広大な所領をその軍門に下しました。

主君を倒し下剋上を成し遂げた梟雄としての後世の評価は、父の仇を討つための復讐の代償であったとも言えます。

阿波国の辺境から出て畿内を制し京を押さえるのは、並大抵なことではありません。
堺に建立した南宗寺は、父元長の仇を取り四国から天下に雄飛した三好長慶の英雄としての証明ではないでしょうか。


○大阪城

豊臣秀吉が築いた城としてあまりにも有名ですが、現在の天守閣は1931年に大阪市民からの寄附金によって再建されたものです。

その他一部の門や石垣、堀は大阪夏の陣の後に徳川氏によって造営されたものが、そのまま遺構として現存しています。

名前は同じ大阪城ですが、秀吉によって築城された城と徳川氏による城、2つの大阪城が同じ立地に存在したことになります。

秀吉時代の大阪城は、徳川家康によって豊臣家が滅ぼされた際に主要な建築を破壊し、石垣や堀などに盛り土をして地下深くに埋封しました。いまの大阪城の諸々はその地表に建っています。
つまり、今の大阪城は豊臣秀吉とはまったく縁もゆかりも有りません。

ちなみに徳川氏による新大阪城の建設の責任者は、当時その道の匠と呼ばれた藤堂高虎が任命されています。(今治城、宇和島城、伊賀上野城、二条城なども高虎の意匠によるもの)

旧大阪城の場合は黒田官兵衛がこれに当たると言われ、さすが天下の要地に権力者が築くだけあって、このあたりの人選も豪華ですね。

大阪城内の数ある見どころの中でも、個人的に何より行きたい場所が

「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」

とされる記念碑です。

秀吉の愛妾淀殿。秀頼を溺愛したと伝わる。

かつて大阪城を支配した太閤秀吉の遺児と愛妾の最期の地であると推測されており、山里曲輪と呼ばれた区域の付近に建立してあるようです

秀頼主従および豊臣家の末路は、それがいかに戦国のならいであるとはいえ、この世の無常と非情を感じざるを得ない悲哀に満ちたものでした。

以下に司馬遼太郎先生の短編「淀殿、その子」から、この母子の無惨な最期を引用させて頂きます。


やがて前線では真田幸村が戦死した。

そのあと寄せ手は城内に乱入し、城は事実上落ちた。
が、淀殿とその子の姿がなく家康は城内を捜索せしめた。
夜に入って母子がその側近とともに焼け残りの干飯蔵に入っていることを片桐且元(家康の家臣。豊臣家から寝返った)が知り、家康に報告した。
この母子を知り抜いているはずの家康もさすがに言葉をうしなった。

(なんのために)

と家康はおもった。
諸将が死に、城は落ち、城内はことごとく寄せ手に占領されたというのに、城主とその母のみが焼け残りの蔵にこもってなおも生きているというのは、この時代の美意識から見れば異様であった。
家康は、その蔵を人数に包囲させ、とにかくも夜のあけるのを待たせた。

この光景はもはや合戦という壮悍なものではなく、蔵に逃げこんだ鼠賊のような者を捕り方が包囲しているような、そういう規模のものになりはててしまっていた。

この間、淀殿は最後の行動をした。

大野治長のみを蔵のなかから出させ、淀殿と秀頼の助命を家康に乞わしめた。
が、家康は黙殺した。

夜があけたが、蔵は沈黙している。
あきらかに家康の心裏に慈悲心のおこるのを待つかのごとくであった。

やがて警戒の人数がさも待ちくたびれたかのごとく銃をあげ、一斉に蔵へ射ちこんだ。家康の意思であった。
弾は壁をつらぬかなかったが、その銃声は家康の意思を蔵の中に知らしめるのに十分であろう。
寄せ手の士卒たちも、蔵の中の貴人が日本の慣習どおり自害してその最期を飾ってくれることをひそかに望んだ。

銃声で、蔵の中のひとびとは絶望したらしい。

やがて白煙が内部から噴きだしてくるのを、そとの者たちは見た。
蔵の中の貴人たちがようやく自殺を決意し、完了したのであろう。

白煙はほどなく赤くなり、炎になり、その炎はみるみる大きくなって屋根を崩し、やがて内部へむかって落ちた。

その焼けあとから男女二十数人の遺骸が灰になってあらわれた。
この方二十間ばかりの焼けあとが、豊臣家の最後の場所になった。
慶長二十年五月八日の昼まえである。

秀頼には辞世もない。
辞世だけでなく、かれの人柄や心懐を推しはかるべきなにものもその二十三年の生涯のうちに残さなかった。
秀頼は影のように生き、死んだ。
その死も、おそらく他の者がその手を執り、力を加え、是非もなしに無理やりに死にいたらしめたものに違いない。

その光景は無残ではあるが、詩にも歌にもならぬ無残さであろう。

司馬遼太郎「淀殿、その子」より
※添付している写真は全てWikipediaからの引用です。