死ぬまでに一度は行きたい名所、名跡をひたすらフィーチャーしますニコニコ
今回は堺・大阪エリアです!よろしくお願いします❗




緒方洪庵が大阪で開いた適塾は、幕末を代表する私塾です。
それまでの儒学や国学とは異なる西洋の学問は、オランダを経由して西洋の窓口である長崎の出島にもたらされた為に、蘭学と呼称されました。
蘭学とは一般的には西洋医学や科学のことを指します。
ちなみに適塾という塾名は、緒方洪庵の号である適々斎(てきてきさい)から名付けられました。

適塾に建つ緒方洪庵の像


緒方洪庵は現在の岡山県に武家の三男として生まれましたが、嫡男でないために継ぐべき家を持たないことと、体が弱く武家奉公に向いていないことなどから医者を志したようです。

大坂、江戸、長崎で蘭学修行に励み、いよいよ学問を深めた洪庵は、1838年に大坂で医師を開業するとともに門弟を募りました。これが適塾の始まりです。

しかしながら洪庵の名声を慕って多くの入塾希望者が訪れ、すぐに席数が満員となった為に、場所を現在適塾が建つ所に移しました。

洪庵の教育思想を大きく転回させた出来事が、ペリーの来航です。

これを国難の一大事ととらえた洪庵は、若者を時代が必要とする西洋学者に教育することが己の使命であると決意します。

この洪庵の決意が、適塾から数多の新時代を切り拓く英明俊才を輩出することになりました。

    若き日の福沢諭吉

適塾に籍を置いた主な門下生は上記の福沢諭吉をはじめ、大村益次郎(近代兵制の創始者)、橋本左内(志士。安政の大獄で刑死)、久坂玄機(久坂玄瑞の兄)、他には漫画家の手塚治虫の曽祖父も適塾で学んでいます。

適塾では畳1畳分が塾生のスペースとして与えられ、彼等はその範囲で寝起きし、日夜勉学に励みました。


適塾所蔵の蘭和辞典(ヅーフ辞書)

塾生らが解らない言葉の意味を探し、互いに争う様にして読んだヅーフ辞書です。
適塾に展示してあるようです。
適塾の教育の特質は、安易に他人の解釈や翻訳などで学ばず、自分の頭で考える自学主義が基本となりました。

福沢諭吉は後年、適塾での塾生生活を振り返って「およそ勉強ということについてはこのうえにしようもないほどに勉強した」と回顧しています。
大村益次郎は自らの死に際して、手術で切断した右足を師である洪庵の墓の傍らに埋葬するよう遺言しました。

このように、適塾は偉人たちが志を立てて必死に学んで学び抜いた聖地であるとともに、彼らにとっての若かりし日の第二の故郷とも言える場所であったようです。

まさに日本の近代化の礎。塾生たちの学ぶ様は現代を生きる私達にも喝と気力を与えてくれます。
適塾の壁や畳に耳を当てて、当時を想ってみたいものですね。

適塾に行きたい!!

逆櫓の松

逆櫓の松の跡

源平時代の古跡。古くはこの地に松があったとされ、その松の下で屋島の戦いに赴く源義経が軍議を開いたと伝わります。

その軍議のさなか、梶原景時という武将が義経にある提案をします。

「舟に逆さ向きの櫓も設置して、自在に旋回できるようにすればどうであろう?」

梶原景時は源氏の総大将である源頼朝の直属の家臣であり、頼朝の命令によって義経の目付け役として従軍している武将でした。

そういった事情で、景時と義経とは主従関係にはあたらない対等に近い立場であった為、義経に対する態度は常に横柄であったようです。

「そのような手間をかけていては機を失う。 そもそも逆櫓など、最初から逃げることを考えるのは笑止である。」

義経の方針は常に神速を尊び敵の意表を突くというものでした。ここでも、義経は彼の天性の戦術眼に基づいた判断を下します。

我慢ならないのは景時でした。
目付役としての威厳を公衆の面前で叩き潰され、小僧に戦の何が分かるかと両者は激しく論争を交わします。

戦にあっては個の武勇に最も価値があるとされた時代、義経の戦術家としての能力は当時は評価されにくい才能でした。

兄の頼朝に自らの功と才を認めてもらいたい義経としては、ここで景時の意見を採用したくないという功名心もあり、更には自分に対して傲慢な鎌倉武士を見返してやりたいという義経の孤独が、目付の景時に対してこのような態度をとらせました。

悲劇の英雄源義経

義経の欠点として他人の心情や背景に対する配慮の皆無という点があるのですが、この欠点は不思議なことに前政権の打倒に絶大な功績があった軍事の天才に共通して当てはまる事が多いのです。

先ほど紹介した幕末の大村益次郎もそうですし、古代中国の韓信もそう。他人の感情を慮る点に関して能力が皆無なために、不必要な恨みを買い、革命後に悲劇的な最期を迎えます。

義経と景時の論争も、激昂した景時が遂には刀の柄に手をかけ、他の侍達に押し止められました。

結局、義経は逆櫓の進言を採用せず、折からの暴風雨に出陣を見合わせた景時達を尻目に少数での強行出陣に踏み切り、屋島で劇的な勝利を手にします。

そして、その大戦果とは裏腹に、鎌倉武士と義経の心間には決定的な亀裂が生じることになりました。

その歴史的舞台となったのが、この逆櫓の松の碑です。
今はもう松も残っていませんが、当時を想うことは出来ます。義経は私の小さい頃のヒーローでした。1番最初に好きになった歴史上の人物は今でも覚えています、源義経です!

逆櫓の松に行きたい!!

※添付している写真は全てWikipediaからの引用です。