昭和54年 8月16日 第61回全国高校野球選手権大会9日目第4試合 箕島高校(和歌山県)対星陵高校(石川県)の戦いであった。


私は幸か不幸か 後にも先にも 甲子園で高校野球を観戦したのはこの1試合だけである。


この年の4月から下宿生活。ちょうど大阪の大学へ就学した年であった。夏休み期間中で帰省していたが 大阪に宿があるため 地元高校野球応援のホームラン列車に 夏休みを暇そうにしていた弟(小学6年)を連れ、親友と乗ることになった。 


午前中は 少し慣れた大阪生活で 偉そうに弟、親友らを市内観光し、甲子園に向かった。


ナイター照明がともり 浮かび上がったマウンドの中 第4試合がプレーボール。


星陵 000 100 000 001 000 100  

箕島 000 100 000 001 000 101x


延長18回 この回で 勝負が着かなければ 明日再試合というアナウンスが流れた。


 誰もが 宿探しに腰を上げようとしていた時 死闘延長18回、箕島2度の奇跡を起こす驚異の底力の前に星陵が敗れた。今だ語り継がれる高校野球史上最高の名勝負であった。


 私にとって星陵高校は母校でもなく さほど思い入れがあるわけでもないが この時だけは声がかれるまで必死に応援した。勝てるチャンスは数回あったが 不運にも生かせ切れず、 勝利の女神は 箕島に転んだ。

しばらくは 勝った箕島が憎かった。



 時を経て 2006年1月に 松下茂典著「神様が創った試合」が発刊になった。

この試合に関わった人達を追ったドキュメントであった。今回はそれを読んで知った感動の話だ。


 この日勝利した瞬間 箕島ベンチから真っ先に飛び出してきた選手 背番号「11」がいた。彼は少年時代から左目の視力がなかった。しかし 生まれながらの運動神経は そのハンディをかばい 好きだった野球では常にレギュラーの座にいた。 

 そして箕島高校に進学したが そのハンディを野球部は歓迎しなかった。入部には 尾藤監督じきじきの特別入部テストまで行われたそうだ。しかし これもなんとかクリアし箕島野球部で活躍した。 この日もレギュラーではなかったがベンチにいた。常に選手のムードメーカーとなりチームを引っ張る重要な存在だった。しかし彼は その後24歳の若さで他界する。肝臓がんだった。 当時の選手たちが見守る中 「もう あかん!」 いままでの彼の口からは一度もでなかった言葉が 最期の言葉であった。


優勝すれば 有名になるだろう。しかし たとえ優勝できなくとも 涙ぐましい努力と苦労で 甲子園に来る。 だからこそ生まれるドラマがある。 


 今年もまもなく はじまろうとしている夏季大会。 歴史に残る試合の裏には歴史に残る事情がある。


「神様が創る試合」  箕島の栄光の背番号「11」を忘れてはいけない・・・


今年も是非みせてもらいたいものだ。