先日、デフリンピックのバレーボール競技を観戦してきました。会場に着いてみると、想像をはるかに超える人の列。開場時間ぴったりに並んだにもかかわらず、入れないかもしれないと不安になるほどの盛況ぶりでした。報道でも“観戦者数が予想を大幅に超えた”と伝えられていますが、その熱量を肌で感じた瞬間でした。

 

ただ、一方でふと考えてしまったことがあります。

もしこれが有料だったら、どうだったのだろうか。

 

もちろん無料で観戦できることには意味があり、門戸を広く開くという理念も理解できます。ただ、「無料だからこそ、価値が伝わりにくい」という側面もあります。前回のブログでも触れましたが、「お金を払ってでも見たい」と思われることは、スポーツや文化にとって大きな意味を持ちます。無料は裾野を広げるための手段である一方で、「価値がある」ことを示しづらくする危うさも抱えています。

 

さらにもう一つ気がかりなのが、今回の盛り上がりが一過性のものではないかという点です。SNSやニュースで注目されれば、一時的に関心が高まるのは自然です。けれど、障害者スポーツの価値が本当に社会に根づくには、継続的に触れてもらう仕組みや、見に行く“必然性”が必要です。「話題だから行く」ではなく、「あの競技や選手を応援したいから行く」という状態にしていかなければ、どうしても熱は続きません。

 

今回、私はボランティアとしてもデフリンピックに参加しました。実は、ボランティアを希望した人はとても多く、私が応募した一つは抽選に外れてしまいました。もう一つのボランティアでは抽選制だったのですが、想定以上に希望者が多かったため「せっかくなので全員参加可能に」という判断に切り替わったそうです。

 

もちろん、多くの人が関わりたいと思ったこと自体は素晴らしいことです。ただその裏側には、頼む側も遠慮がちで、やる側の責任感が曖昧になるという難しさも見えてきます。ボランティアは活動を支える大きな力ですが、同時に「善意に依存する仕組み」の限界もあります。

 

大会運営や競技サポートのように「専門性」や「責任」が求められる部分を、無償のボランティアに頼る構造は、本当に持続可能なのだろうか。

今回関わってみて、そんな疑問が強く残りました。

 

障害者スポーツの価値を社会に根づかせるには、もう少し“対価の循環”が必要なのかもしれません。観戦に適切な価格を設定する。運営には専門人材にしっかり仕事として関わってもらう。ボランティアは「誰でもできること」ではなく「役割の一部を担う存在」として整理する。そうした仕組みがあって初めて、イベントの質や安全性も安定するし、関わる人の責任も明確になります。

 

デフリンピックの盛り上がりは本当に素晴らしいものでした。その熱を“次へつなげる価値”に変えるためにも、無料やボランティアに頼りきるのではなく、適切な仕組み作りを考えるタイミングに来ていると強く感じています。