― デフリンピックの議論から考える、私たちの“価値”の話 ―

 

デフリンピックは「無料」で観戦できます。

誰でも来やすいように、知ってもらうために——という意図があるのは理解できます。しかし同時に、どこか引っかかりを覚えたのも事実です。

 

病気や障害があるから“無料でいい”、

価値をつける必要がない。

そんなニュアンスが、わずかでも混ざってしまってはいないでしょうか。

 

もちろん主催者にそんな意図はないでしょう。

けれど、社会は時に、病気や障害のある人に対して

「負担をかけさせないように」

「気軽に参加できるように」

という名目で、“価値を低く扱う”方向へ流れていくことがあります。

 

私は、1型糖尿病の子どもを持つ親として、この空気感にはいつも敏感になります。

 

病気や障害は「価値を下げる要因」ではない。

 

1型糖尿病であれ、聴覚障害であれ、その他の病気や特性であれ、

それが“人としての価値”に影響することなど本来ありません。

 

にもかかわらず、

「無料でいいよ」

「多少の質はしょうがないよね」

そんな扱いをされると、

まるでこちらが“価値を評価される側”に置かれているように感じる瞬間があります。

 

本当に必要なのは「値段を下げること」ではなく、ありのままの存在に正当な価値を認めること。

 

デフリンピックの選手はアスリートです。

努力も、技術も、身体能力も、敬意に値する。

それを“無料”という形でしか広げられないとしたら、

そこに潜む社会のまなざしを見直す必要があるのではないでしょうか。

 

1型糖尿病の世界にも同じ構造があります。

 

ご飯を食べるたびに血糖値を考え、

運動するときに細心の注意を払い、

夜中にアラームに起き、

朝にはまた新しい一日を始める。

 

これは弱さではなく、

とてつもない強さです。

 

本来なら、

「あなたたちの努力には価値がある」ともっとはっきり社会が言葉にしていいはずです。

 

「価値があるものには価値をつける」ことは、差別ではない

 

ここで誤解してはいけないのは、価値をつけること=差別ではない、ということです。

 

むしろ逆で、

価値をつけずに扱うほうが差別につながると私は思っています。

 

・適切な対価を払う

・敬意をもって評価する

・その人の努力や技術を正当に扱う

 

これらはすべて、「あなたには価値があります」と伝える方法です。

 

だからこそ、

病気や障害がある人が関わるものが“無料でいい”とされるとき、

その裏にある社会の視線を問い直すことが大切だと考えます。

 

最後に ― 価値があるから、価値を認めよう

 

病気や障害の有無は、人の価値とは関係ありません。

それどころか、

制約を抱えながら生きている人々の努力や覚悟には、

本来もっと大きな尊敬が払われてよいはずです。

 

デフリンピックの選手も、

1型糖尿病の子どもたちや家族も、

“安くで扱われるべきもの”では決してありません。

 

価値は最初からあるのだから。

ただ、それを社会が正しく扱うだけでいい。

 

その当たり前のことを、

私たち自身も忘れないでいたいと思います。