先日、56回目の誕生日を迎えました。

年齢を重ねると、誕生日の意味が少しずつ変わっていくように思います。若い頃は「お祝いしてもらう日」「楽しい日」という印象が強かったのですが、今はもっと深く考えるようになりました。

 

あるドラマでこんな言葉に出会いました。

「誕生日にはお祝いすることが2つあるんです。1つはもちろんあなたがこの世に誕生したこと。もう1つは今あなたが元気で生きていること。」

 

この言葉は、年齢を重ね、同年代の知人や友人が亡くなることも増えた今、とても心に響きました。そして同時に、1型糖尿病と共に生きるわが子を支える親の立場としても、強い意味を持つ言葉だと感じました。

 

1型糖尿病と共に生きる子どもを見守って

 

子どもが1型糖尿病と診断されたとき、「一生この病気と付き合っていかなければならない」という現実に直面しました。インスリンなしには生きられないという事実は、親である私にとっても大きな衝撃でした。

 

もちろん、子ども本人が背負っている負担は計り知れません。血糖値の管理、食事の調整、体調の変化――その一つひとつに神経を使う日々。親は支えたいと思っていても、全部を代わってあげることはできません。見守るしかないもどかしさを感じることもあります。

 

それでも、子どもは日々を懸命に生きています。その姿に私は勇気をもらい、「元気でいられることは当たり前ではない」という言葉の意味を、改めて深く受け止めています。

 

誕生日は「感謝の日」

 

親として思うのは、誕生日は単なる年齢の区切りではなく、「ありがとう」を伝える日だということです。

病気と向き合いながら日常を懸命に過ごしている子どもに対して、そしてそれを支えてくれる医療の存在や周囲の人々に対して、心からの感謝を覚える日でもあります。

 

小さな日常の一コマ――血糖値が安定した日、安心して食事ができた日、笑顔で過ごせた時間。その一つひとつが「生きている証」であり、私たちにとっての大きな喜びです。誕生日は、それらの積み重ねを振り返り、改めて「よくここまでやってきたね」と確認できる節目なのだと思います。

 

子どもが病気を抱えているからこそ、日常の小さな幸せがより輝いて見えるのかもしれません。血糖値が安定している一日、美味しいご飯を安心して食べられる時間、出かけた先で笑顔が見られる瞬間。その一つひとつが「生きている証」であり、心から祝いたくなる出来事です。

 

そうであっても、生きる

 

1型糖尿病を抱えている子どもを見守る親として、将来への不安や心配が尽きることはありません。けれども同時に、子どもがたくましく日々を生きている姿から、多くの力をもらっています。

 

「そうであっても、生きる」

この言葉は、病気を抱えていても、支える側として迷いや葛藤を抱えていても、私たちに必要な心構えなのかもしれません。

 

誕生日は、人生の節目を祝う日であると同時に、「今を大切に生きよう」と改めて心に刻む日です。

 

最後に

 

56歳を迎えた今、強く感じるのは「生きていることは奇跡であり、挑戦であり、そして喜びである」ということです。

 

親の立場から見ても、誕生日は「これからも共に歩んでいこう」と心を新たにする大切な日です。1型糖尿病を抱える本人にとっても、その家族にとっても、誕生日は特別な意味を持ちます。

 

次の誕生日も、そのまた次の誕生日も、「元気で迎えられたこと」を一緒に喜び合えるように。

その思いを胸に、今日も歩んでいきたいと思います。