おじいさんは山へ芝刈りに・おばあさんは川に洗濯に行く、では桃太郎はなんなのか。
それは辺境の地から現れた異境の民であり、農耕社会と狩猟社会を壊す秩序だったのではないか。
世の中にいる人々がみんなマタギになってしまったら、それはどんな社会なのか。
そんな問いで始まるのが、Newspicksの動画「マタギドライブとその先へ」についてである。
発想自体は、「ステーショナリー・ノマド」と呼ばれる、いわば定住しない遊牧民が元となっている。その定義は「
地球上のさまざまな場所に置かれた、電子的なキャンバスからプログラムを送信することで、エネルギー消費を抑えてアート活動を行う人たちを指す概念」である。それは芸術活動に限定されているが、デジタル技術を通して作品を発信し、エネルギーを消費することなくさまざまな場所を移動できる現代の生活様式と非常に近しい。それは言わば都市に集住し、物質的な制限を受けていた定住民とは異なり、外部から地域社会に有用な考え方を絶えず取り込み、対話の中で社会課題を解決していく。
落合陽一の考える世界の中では、人工知能が解決できない課題はここからどんどんとなくなっていき、人間が担う役割は「祝祭」に身を浸すだけになるのではないかということである。つまり、技術というインターフェイスが社会を変革し、運営するというアプリケーションを考案できる状態を指す。こうなると人間はシステムのお守りをしているふりをするか、すでに答えが出ている問いに対してあたかも専門的・擬似的に人間的なコメントや労働を付加していくのみになるということだ。
多分この世界は到来すると肌で感じている。特に企業に属していると、1つのアウトプットに対して無数のブルシットジョブが存在することを知っている。例えば社内政治や、会議のための会議や、もしくは技術に対するレクチャーなどもそうだ。これらは、人間同士がある種意思決定に対する合意をするために実施されるが、実際にはトップダウンで最適な政策を共有すれば時間は圧倒的に短く済む。人間は、今後人工知能が下す判断を解釈し、そこに納得するために、ああでもないこうでもないと納得感を得るための仕事をする。この世界では、人工知能こそは拡張された自然ではなく本来の自然になる。
また、多くのクリエイターが行う創作活動も意味をなさなくなっていく。今後は労働の対価によるスキルを習得しても人工知能がそのアウトプットを凌駕していく世界線になる。人間が人工知能をどう利用するかではなく、人工知能が人間の振る舞いに応じてアウトプットを微調整することになる。
私はここで、蒲田田園都市のことを思い出した。蒲田田園都市とは、日本で最も先端的なコミューンであり、家族経営によって学校や遊び場や地域社会の運営を閉じた世界で、これを黒澤商店という1商店が賄っていたことが特徴である。戦争で焼け落ちてしまったが、もしかしたら蒲田という地から日本にコミューン的な理想郷が広がっていたかもしれないという、言わば「もしかしたら別の社会」という文脈で語られることがある。
蒲田田園都市のことは深追いしないが、言いたいことは労働による成果というのは当事者にとっては価値あるもの(かっこいい!すごい!)となるが、それが永続することはなく時代によって削り取られてしまうということだ。私たちの人生を通して作った作品や企画はそれ自体時代の要請に応えていても、効率性やアップデートという進歩主義的な刷り込みで簡単に壊され、運が良ければ歴史として記憶される。
人間の進歩主義的な側面の担い手がAIに変わっていくとしても、人間はこうやって今自分が置かれている世界に自信や愛着を持ち続けることで生きていけるし、逆にそんなものは時代と共に全く無価値になってしまうということを知らなければならない。「もしかしたら別の社会」というイメージを互いに妄想し続け、効率化・最適化されていく社会に対する周縁の物語を芸術に昇華させることが今後の私たちに求められるのかもしれない。
これからの10年、社会はもっと変わるだろう。そして子供たちの世代では何が残されていくのだろうか....
く。