孤独とナラティブとAs ifと | OldLionの備忘録

OldLionの備忘録

年老いたライオンは錆びない。狩りを続け、振る舞いは日々深みを増していく。
いつまでも自分を忘れず、狩りを忘れぬライオンでありたい。
そんなライオンになるための日進月歩。

孤独に関する議論が積極的に行われるようになって久しい。

しかし社会的には孤独という問題はコロナと紐づいて語られており、今は社会問題として取り上げられることも少なくなった。2024年を最後に担当大臣は設定されていない。

 

この問題は可視化されづらいという特徴を持つ。そして、SNS化され、人々が「望まない孤独」に悩まされるという状況も現代病であるとして指摘をされている。

 

この孤独という社会現象は、あくまで現象であるため、原因や背景があるのではないかと考える訳である。

 

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私たちは人間同士のつながりの中にパラドックスを内包している ー それは繋がりたいけども、繋がりたくないという状態だ。

 

自分が何者かを理解して欲しい、しかし一方で他人との差異というものやその差異が生まれた個体同士がぶつかり合うときに生まれる閃光は、エネルギーの消費を求める。このエネルギーは消費されるのではなく、人間そのものを削るガンとして居座り続けることもある。これを嫉妬やルサンチマン、拒絶などたくさんの呼び名がつけられる訳である。

 

他人との差異とはつまるところなんなのか。それを「ナラティブ」と呼ぶこともできるだろう。

ナラティブとは、人間を主人公として見てみると人生の考え方・物の見方の全体である。それを例えば解釈する側から見てみるとその人の特徴・性格であると言えるし、もしくは企業のマーケティング担当から言えば市場という呼び方もである。ナラティブは主観的には完全には物語化できないし、また第一人称からは決して開示されないという特徴を持つ。

 

私たちが他人を解釈する時には、第一人称から発せられた言葉や態度を読み取って、それをストーリー的に解釈することで理解する。そして、その内容をフィードバックする(言葉でなくとも態度でも)ことで第一人称は自分が何者であるかの断片を掴むことができるのである。

 

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ナラティブというものは、ディメンションに分解すると解釈しやすいという読み手的なtipsがある。

例えば、住んでいる地域・年齢・世代・趣味嗜好などである。この地域に住んでいる人はこんな人が多い、とかこのコミュニティにいるということはこんな人のはずだ、といった具合である。

 

これだけインターネットで世界が便利になったとしても、決して界隈というものは無くならない。例えば、渋谷界隈・新宿界隈・港区界隈など。却ってこの数年間、この界隈の境界はお互いに強化され合っているように思う。

お互いに自分が持っているアイデンティティで全く理解できない他人がいる界隈に突っ込んでも、傷ついてしまうからだ。

 

お互いの界隈の話もそうだし、職業選択の話だってそうだ。仮に今私が、「あなたは100%年収2000万に到達する。それは毎日テレアポ100件することである。」と言っても心動く人間はいないだろう。「友達100人できる。このツボを買えば」と言うのもそうだ。現代はますます"断片的に"情報が開示されることで、お互いにお互いを知った気になるハードルが低くなった。(繰り返すが全体性を知ることはできないので、ある種飛び込んでみたら居心地よかった、みたいな状況も大いにある訳である。)

しかし、相手の情報が中途半端に開示されているが故に、無理に自分を開示することのコストは高くなったとも言える。

 

スキルについても同様だ。何かを学習するコストはどんどん低下していっている。だけども、スキルを実際に身につけるものは増えはしない。スキルを身につけた先の収入・働きやすさ・年齢層・環境などの情報が事前に断片的に開示されてしまうので、スキルを身につけた先のことに慎重になるためである。

 

実際にはすぐに会いに行ける/実行できる/習得できるけども、行動はできないというここにもやはりアンビバレントな状況が生まれる訳である。それぞれの界隈は強化され、界隈からこぼれ落ちた人間たちは選択する能力をなくして自己防衛していく。

 

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この状況を打開する糸口は実は存在するのではと考えている。それはAs if/What if の思考である。As ifをは「もしも〜だったら」という、現実が実現した本当にそのつもりになった時の仮定をイメージすることである。What ifとはその条件では何が起こるのかを詳細化していく作業である。

 

まさに、自分と全く違う何者かとして自分が現れるとしたら、それはどんなふうであるのか。

 

例えば、日本で働いている人間が、フィリピンに行くとする。フォリピンは所得が低く、清潔ではなく、治安も悪い、という一次情報がある。しかし、実際には全ての人間にオープンである人間性が根付いており、よほど距離感という意味では日本より過ごしやすい。こうして、フィリピンを選択した仮の自分をナラティブとして知ることで別の人間になり得るという直感的な示唆と眼差しを持つことができる。

 

現実的に、あらゆるナラティブに対してこの「仮定」をすることはできないし、何ならしろと言われてもしたくはない訳である。

 

だから、私たちがもし社会に少々の貢献をしたいというのであれば、それは他人を変えるアプローチではなくて、第一人称としてナラティブを横断し、全く違う人間同士の間を追体験することをやり続ける人材になり、それを二人称に広げていく、というアプローチをとっても良さそうである。

 

全然関係ないけれど、ピアノを始め、中国語を始め、そして研究機関に所属するという試みを今行なっている。世界のあらゆるナラティブの代弁者になりたい、という禅問答に向き合っていきたいなと思う次第である。