工女の歴史 経営者側の苦悩 | OldLionの備忘録

OldLionの備忘録

年老いたライオンは錆びない。狩りを続け、振る舞いは日々深みを増していく。
いつまでも自分を忘れず、狩りを忘れぬライオンでありたい。
そんなライオンになるための日進月歩。

時間がかかったが、ああ野麦峠を完読。本当に名著。

女工哀史で知られる工女の歴史だが、この工女の生き様を様々な角度からほりさげ、一つのエコシステムがどのように持ち上がってきたのかを知る意味で非常に面白かった。

 

前回の記事で、なぜ生糸が日本の主要産業になったかということを中山社などの国産糸引き機に見出したが、実際はかなり経営の面ではかなり大変だったようだ。まず生糸を作るための原料は、高い時で製品価格の8割を超えていたという。それに工女への賃金やもろもろの設備維持費が入っていた。これは規模の経済で初めてうまくいくモデルなわけで、そのため銀行からの借り入れが必須。経営者としては勝つか負けるか、覚悟を決めて始めなければならない。

 

だが、当時の生糸相場は、半端じゃないボラティリティがあった。特に明治期は前年の相場と比して製品価格が半額になることもあった。そして何より1923年の関東大震災や、その後の世界大恐慌など、事業運営のリスクをもろに受けやすい体質でもあったようだ。為替リスクや、原料リスク、火災リスク、盗難リスクなど。だから製糸業は相場師と呼ばれ、「カラスのなかない日はあっても工女が諏訪湖に飛び込まない日はない」し、「カラスのなかない日はあっても競売のない日はない」と言われるほど廃業が多かった。

 

それゆえ、岡谷の製糸王片岡兼太郎など、社長は荷物の運搬で山賊とたたかったり、庭先に立ったり、自ら率先して現場に立つものも多かったという。どんなビジネスでも簡単なものなど決してありはしないが、この製糸業は様々な面で経営側が精神をすりへらすものであったことは理解しておきたい。