マノエル爺さんは家で酒を飲んでいた。
息子さん夫婦はすでにこの家にはおらず、爺さんは一人暮らしだった。
実際には70近い年齢のはずだが、見た目には60前後に見える爺さんは一人暮らしでもまったく不便を感じていないようだ。
「お、やっと少しまともな仕事を持ってきたな?」
爺さんに依頼書を見せると、酒のせいで気分がよくなっているのか少しうれしそうにめがねをかけて依頼書を覗き込んだ。
「どれどれ…」
依頼内容は、このようなものだった。
セビリアに有名な大聖堂があり、そこには聖母を描いたステンドグラスが保管されているらしい。
ある神学者がそのデザインの様式を知りたいといっている。大聖堂の司祭に事情を話してステンドグラスを見せてもらい、その様式を報告すること。
「まぁ、難しい仕事では、ないな。さて、いつ出る、わしはいつでも大丈夫だぞ」
早速船員たちに招集をかけ、出立の日程を伝える。
出立は、明後日。
今日先ほど戻ったばかりでまた出航ではさすがに船員たちも喜ばないだろう。
その日は酒場で船員たちに一杯おごってやり、疲れをしっかりとって置くようによく言い聞かせておいた。
もっとも、航海に関しては彼らのほうがよほど経験もあるのだから、私に言われなくてもそのようにするだろうし、彼らの必要なことは彼らがきちんと済ませておくだろう。
ただ今夜は気持ちの高ぶりを彼らに隠すこともなく、胸を借りればいい。偉ぶることはないのだ。
自宅に戻り、妻に今度の仕事の話をする。
「美術品の様式の調査なんだ。セビリアまで行くことになったよ」
「セビリアって、イスパニアの?そんなところまで行くの?!」
元はしがない流しのリュート弾きだった私と、どこにでもいる町娘であった妻。そのどちらもポルトガルを出たことなどあろうはずがなく、妻の反応ももっともだった。
「大丈夫なの?海の上なんて想像もつかないけど、危ないこともあるんじゃないの…?」
「それは、、、いろいろあるけど、、、」
危ないことだらけだった。
突風、嵐などの自然の危険、さめや鯨などの危険な動物、果ては海賊や他国の戦艦など…海上の危険など数え上げればキリがない。
「でもだからといっていまさらやめましたとはいえないよ」
私の独断専行な性格は妻が最もよく知っている。その後も妻は面白くはなさそうだったが、旅先から手紙を書くことを約束し、どうにかこうにかなだめすかしてしぶしぶであろうが納得してもらい、その日は床についた。
中一日の休息日は、妻のために使うことにした。
幸いにして懐は潤っているのだから、少しの贅沢もいいだろうと、二人でゆったりと食事に出かけ、少しの買い物をした。
贅沢と行っても、もともとが裕福ではない私たちのこと、飛びぬけたことは出来ず、いつもの食堂で少し高い料理を注文するくらいのことだったが、思いがけず訪れた静かな時間は、私たちにとってとても有意義な時間になった。これからこの仕事を続けるのであれば、こうした二人一緒の時間もあまり取れないであろうし、一緒にいられる時間はとにかく妻のことを考えてすごすようにしよう、私は強くそう感じた。彼女の喜ぶ顔が、私にとっては何よりの疲労回復薬なのだ。彼女が悲しむようなことは絶対にしないように、危険なことはなるべく慎むように、気持ちを新たに持ち直した。
妻がどう思っているかにかかわらず日は昇る。
出立の朝、青く澄み渡った空に気持ちを盛り上げられ、意気揚々と家を出る。心では心配だろうが、笑顔で見送ってくれる、私にはもったいないほどの女性だ。しかし、家を後にした途端に気持ちが切り替わるのは、以前の仕事のときもそうだったが、まったく不思議なほどすっぱりと気持ちが入れ替わるのだ。
港に近づくに従って気持ちはさらに盛り上がり、桟橋を歩く頃にはそわそわして小走りになり、青空を背に浮かぶ自分の船の前に立ってしまえば、心はすでに海の上にいるようなものだ。
「お、早いな!」
マノエル爺さんが日焼けした顔をしかめながらあらわれる。
「眼が覚めちゃってね」
思わず照れ笑いがでてしまう。嬉しくて仕方がないのを隠しているつもりなのだが、きっとそれはばれてしまっているだろう。
「あんまり気負いすぎるものじゃないぞ。まぁ、まだわからんだろうがな…」
マノエル爺さんの言葉は、理屈ではわかるが、今の私にまだその重みがわかろうはずもなかった。
出港準備をしている間に続々と船員が港に集まってくる。
昼ごろになり、出航所での手続きを済ませる頃にはすべての船員が集まっていた。
「よし、では、出航!」
「あいさー!」
船は桟橋を離れ、ゆっくりと河口へ向かう。
河の流れに従っていくと、程なくして海が眼前に見えてくる。
セビリアに向かう途中にファロという町がある。まずはその町を目指していくことにする。とにかく見聞を広めることも、大切なことだ。
今回の仕事には特に期限が設けられておらず、ゆっくり仕事をすることが出来る。もっとも、あまりゆっくりしていては信用も落ちるだろうし、次々仕事をこなしていかなければ当然報酬も手に入らないのだから、生活に困ることになるだろう。期限がないとは言え、早いに越したことは、ないのだが。
ファロについたのは翌朝の夕暮れだった。
灯台の明かりを頼りに港に入る。なんとも小さな港だ。リスボンの港とは比べ物にならない。それでも他国籍の旗をつけている船を何隻か眼にすることが出来た。ポルトガルの東側の最初の港なのだから、無理からぬことだ。
入港手続きを済ませ、夕食をみなでとることにした。
「何もないところなのは、相変わらずだな」
マノエル爺さんが回りを見渡して言う。確かに人影もまばら、店もそれほど見かけない。この時間であればこれから食事を取る客も多かろうに、店が少ない上に開いていない店も多いと来ている。わびしい雰囲気がどことなく漂っている。
「ともかくどこかでなんか食おう。腹が減ってたまらねぇ」
船員の一人がそういって店の明かりを目指す。まばらに光る街並みの中で、暖かく光をともす食堂を見つけることが出来た。幸い、安くてそれなりにうまい料理にありつくことができ、私も船員たちも満足して船に戻った。
これからさまざまな場所を目指していくのだから、こういう港もあるだろう。今はまだポルトガル近辺を行ったりきたりしているだけだから、食べ物ひとつとってもわれわれの口に合うが、これがこの先も続くとは限らない。
とはいえ、今の私にそのような先のことが具体的に想像できるはずは、もちろんなかった。
今日も、窓の外に光るきれいな月をゆらゆらと眺めながら、眠りにつくのだった…