右とか左とか、まあ本当に詳しいことは専門の人にしかわからんのですから何ともですがね。

ただね、昔そこそこ仲の良かった人に「助けてやる」みたいな感じで着いていったら宗教の勧誘だったり、先輩に「久しぶりに会わない?」って言われたらねずみ講だったりしてさ。あげくマネージャーと差しで話したらバーチャルなんたらで投資みたいなのでさ。もうなんだか誰も信用できなくて。あげくそんな連中にしか相手にしてもらえない自分も信じられなくなったりしてね。困った時期があったとさ。

結局人間はね「自分が得をする」ことには懸命で「自分が信じることを相手に信じさせる」ことをしたい生き物なのね。しかもそれを「あなたのため」「国のため」と自分以外の何かのためにしちゃう。責任逃れもいいとこなんだけどね。

今いる右も左も国のためにやってるんでしょうよ。なれば理想の国とは何かを考えてからはじめれば?

まあみんな自分の信じることを他人に信じさせたいだけなんだけどね。しかも自分がいいと思ってるものを、相手のために、相手のことを思って「これが正解よ」とやるからまあめんどくさい。

そんなこんなで、僕は自分を鑑みた時、1%でも迷いがあったら紹介やオススメをしないようになりましたとさ。迷いがなくて紹介しても、相手が反論したらすぐに話題を変えるようにしましたとさ。

だって相手に期待してもしかたないでしょ? 人間だもの。
半年前くらい?に収録した作品群が上がってきた。

面白い。
ちょー面白い。

これ書いたのだれや。俺や。バンザーイ。

なんてなことを思って、また原稿に向かう。

結局ね、上がるか下がるかしかないんだなあと。

だからきちんと自分に餌を与える。

テンションの上がるもの、気分のあがるもの、
やる気が出るもの。

ニンジンぶら下げて自分を走らせる。

どうなるかわからんけど、自分にまけるわけにゃいかんのよ。負けなかったから面白いもん書けたんだから。
芝居をやる理由を考え続けてもう数年。

はっきりした理由が見つからないままここまで来てしまった。

その間にたくさんのやらない理由を見つけてしまった。

金はかかるが儲からない。
時間の割に本番が一瞬。
自己満足じゃないのか。

見るというのもそうだ。

見に行っても価格以上の満足度に出会うものは少ない。
友人だから行ってるわけでそれ以上の理由はない。
見に行く時間と価格プラス交通費とその時間がかかる。

ああ、なんて無駄なのだ。

しかし極々たまに大当たりがあるもので、今日はそれに出会えた。

シネマ歌舞伎、阿弖流為。

やっぱり歌舞伎役者はすごい。演技力、表現力、日本人への伝え方という意味では化け物だ。長い時間をかけて研鑽されてきた技術を絶やさずに積み上げ続け、結晶化した今の役者たち。すごい。

だが本題はそこではない。芝居をやる意味、見に行く意味の話である。

今日見ていて一番涙が溢れたのは、帝の前で田村麿と阿弖流為が人として向かい合った瞬間であった。

約定を破られ怒りを顕にし都の人に鬼と恐れられる阿弖流為に、人として接する田村麿。

そして剣を交え死力を尽くすのであるが、途中ただの取っ組み合いに見えてしまう部分。真っ向から、拮抗する実力者となにも考えず向かい合える幸せ。そこには策も体裁もない。心のままに、無になれる瞬間がある。

自分もそれを幾度も味わってきた。時には格闘技で、時には音楽で、時には芝居で。それは素晴らしい瞬間で、なにを置いてもしがみつきたくなるものだった。

世の中とはとかくままならないもので、そんな瞬間は普通に生きていると数えるほどしか味わえない。自分は普通よりは多いと思うが、それでも社会人になってからは本当に少ない。むしろヒエラルキーを意識し、頭を使い、心を殺し、ミスなく、冷静に……そんな毎日である。しかもままならない。問題がいつ、どこで、どんな風に起きるかはわからない。このストレス、恐れも加味され、毎日は完全なるサバイバルとなる。

芝居はそんな日常からの解放であると思う。やる側は全力でぶつかりあい、見る側は手に汗握り、共感し、体感し、経験する。そうしてまた明日から心を冷静に保つ。何もない毎日に波風をたてる。しかも必ずおさまり解決する「ままなる」波風を。

それはきっと救いでもあるし、治療でもある。

思った通りの全力を出す。「ままなる別世界」に生きる。これが芝居をやる意味。

思った通りの全力を出している役者を見て自分の中の全力を思い出す。「ままなる別世界」の自分に思いを馳せ、希望を思い出す。これが芝居を見る意味。

今さらこんなことに気づいた、35の誕生日直後でしたとさ。