教育としての食育、生きた教材ととしての給食とは何だろう? 中学生にも温かい全員給食を その22 | だばなか大介オフィシャルブログ Powered by Ameba

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日本共産党河内長野市議会議員 だばなか大介

この1年間連続して市議会で中学校給食問題を取り上げてきました。

それは、保護者の中に絶対的な要求があるからです。

 

その中で

1つは、PTAはじめ保護者が全員給食を求めていること。

2つは、歴史的経過の中で食育が問われ、法律も学習指導要領も学校給食を食育教育の基本にしていること。

を明らかにしてきたつもりです。

 

論戦の中で、教育委員会側に抜け落ちていると強く感じることは、「教育としての食育・給食」です。

教育としての位置づけがないからこそ教育委員会の側から「給食の時間が部活やホームルームを圧迫する」などという発言が出てくるのだと思います。

 

 

そこで「教育としての食育・給食」とはどんなものだろうと、もう一度考えてみました。

単純に学校給食法の2条の7項目を1面的にとらえるだけでいいのだろうか・・・・

 

 

改めて教育とは何かを問うた時、その答えは必ずしも1つではないと思いますが、いずれにしても教育とは「学力」や「IQ」を競うことではないことは、明らかな答えだと確信しています。

 

私は、教育とは何かの1つの答えは、「正解を回答すること」だけではなく、探求するプロセスを含めて「学ぶ楽しさ」を知ることにあると思います。

さらには、その必然を知ることで「自由になること」だと思います。

 

算数が苦手な子どもに、無理やり公式を詰め込むのではなく、他の方法も含めて問題を解く過程の楽しさを知ることが大切であることは言うまでもありません。

 

9月議会で教育長は「だばなか議員の近くにおられる方は嫌いなものでも食べさせれば良いと考えているのだろうが(要約)」と言われました。逆を返せは教育長が考えている給食指導とは「嫌いなものを無理やり食べさせる」ことだ思っているんだと思います。

 

人間にとって食べることは、他の生物同様に生存するために絶対必要な行為であると同時に、人間だけが有する料理や食事の楽しみ、コミュニケーションの手段であることです。

 

他の動物には無い、料理し配膳しすること、味つけ、香り、温度、季節の味覚、同じ食べ物を共有し会食すること、食器や盛り付けを含めた視覚、他国の食文化を尊敬すること、片付けること、食材を生産/農耕・養殖すること、流通させることなど、人間だけが有する食事の楽しさを人として学ぶことにあると思います。

 

確かに、中学校の教育現場が多忙を極めており、理想とかけ離れていることは承知しています。

 

しかし9月議会で教育長を先頭に請願に反対するために他会派の議員が「子どもたちは給食に反対している。子どもたちの思いに寄り添え」の議論を展開しました。

子どもたちが給食に反対する理由は何なのでしょうか?

その一つが「嫌いなものが出る」である事は明らかです。

教育としての食育・給食を考えた時、「子どもの思いに寄り添え」の議論は、本当に子どもたちのことを思っての議論ではなく、反対のために子どもたちの声を利用したものと言わなければなりません。

 

子どもたちにとって、人間としての食の楽しさを学ぶ場こそが、教育としての食育であり、生きた教材としての給食なのです。