「市の財政構造や歴史的な体質について書きます」
と宣言してからいろいろ考えたのですが
歴史に向き合い反省しなければ
未来の展望はないと思い
「市政60周年シリーズ」で、ひも解き、研究していこうと思います。
お付き合い、よろしくお願いします。
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1954年(S29年4月)
河内長野市が生まれました。
国・府の告示
小柴市長の施政方針を拡大すると
観光都市を目指すとしています。
この時の財政状況は
市政施行に伴い支出が多く、厳しい
臨時職員13名を解雇した
職員の時間外勤務手当を自発的に返上した
としています。
今で言う、リストラにサービス残業・・・・
米の配給がまだあった時代です。
人口は約3万人でした。
1955(S30)年7月には、長中が木造で増築完成
1956(S31)年には鉄筋コンクリート3階建て前市庁舎(現ラブリーの土地)が完成
そして
市政施行からわずか3年で財政再建団体に
(千代田小学校が木造瓦葺2階建てで建築とあります)
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この時の財政再建団体指定は
財政再建団体指定の法律ができた(S32)と同時に該当していた
という側面があります。
しかしながら
1954(S29)市政施行時の市長の談話を見ると
市政施行による基礎的な基盤整備への支出の増大と
国の地方に対する緊縮政策のため
と見るのが妥当ではないかと思います。
でも、鉄筋コンクリート3階立ての市庁舎が即必要だったのかは疑問です。