熊の恐ろしさ
斜里町の羅臼岳登山道で下山中に襲われた人の遺体が発見された。付近で捜索中の山岳救助隊やハンターにより、付近をうろついていた親子グマ3頭が駆除された。DNA鑑定や親熊の解剖等の検査を待たなければ被害者を襲撃した熊かどうか特定できない。
ニュースによれば、
警察が15日、身元を確認したと発表しました。
死亡した男性は、東京都墨田区に住む会社員、曽田圭亮さん(26)です。
曽田さんは8月14日午前、羅臼岳の標高550メートル付近の登山道を知人と歩いていた際、クマに襲われました。
曽田さんは当時太ももあたりから大量に出血した状態でヤブの中に引きずられていった様子を目撃されていました。
15日午前5時30分ごろから警察が18人態勢で捜索。襲われた場所の周辺で曽田さんのものとみられる財布や血の付いたシャツも見つかっていました。
また、午後には曽田さんが襲われた現場周辺に親子グマ3頭が現れ、その後ハンターによっていずれも駆除されています。
道が駆除したクマが男性を襲ったクマと同一か調べるとしています。
写真は熊の参考写真
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野生のヒグマは、本当に恐ろしい。爺さん何回か三毛別の熊襲撃事件等を紹介してきたが、
ヒグマの襲撃、逃げ込んだ家から引きずり出され… 死者4人を出した「石狩沼田幌新事件」
について紹介しましょう。
最近、日本各地で熊による被害が相次いでいる。
熊の執念深さ、執拗さは熊害を語る上で必ず出てくる性質だ。
約110年前、大正4年(1915)に北海道の開拓地で起きた「三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件」は日本史上最悪の熊害としてあまりにも有名であるが、大正期には他にも熊の「執念」によって人々が苦しめられた凄惨な事件が起きていた。
「石狩沼田幌新事件」は、三毛別ヒグマ事件から8年後の大正12年(1923)に発生した事件で、日本史上2番目に大きな被害が出た熊害事件である。
8月21日、沼田町内で太子講の祭が行われていた。余興の浪花節や芝居を目当てに、近隣から多くの人々が集まる一大行事である。
午後11半過ぎ、祭の余韻に浸りながらそれぞれが帰路につく頃に事件は起こった。
幌新地区近辺から祭に参加していた一行(北海道新聞社『ヒグマ』の記述では5人)が揃って夜の山道を歩いていた時、最後尾を歩いていた19歳の青年・林謙三郎さんが、突如現れた巨大なヒグマに背後から襲われた。
帯や着物を鋭い爪で引き裂かれながらも必死にもがき、どうにか熊から逃れた彼は、大声で前方を歩く一行に危険を知らせる。
先を歩いていたのは、両親と2人の息子で連れ立って祭に参加していた村田一家だった。
ヒグマは続いて先を歩いていた13歳の幸次郎さんに襲いかかり、一撃で即死させる。
動かなくなった幸次郎さんを喰らうわけでもなく、ヒグマはすぐさま母・ウメさんをターゲットにした。
15歳の與四郎さんが後に証言したところによると、ヒグマが母に襲いかかったタイミングで與四郎さんがマッチに火を点けた瞬間、今度は與四郎さんに飛びかかってきたという。
この攻撃で與四郎さんは重傷を負う。一通り攻撃し終えたヒグマは、先ほど殺害した幸次郎さんの遺体を食い始めた。
命からがら逃げだした父・三太郎さんらは、付近にあった農家に逃げ込んだ。
執念深く「獲物」を追うヒグマはやがて幸次郎さんの内臓を食べながら現れ、窓から中を窺い始めた。
家の中にいた面々は手当たり次第に物を投げつけるなどしたが、ヒグマはひるまない。
三太郎さんが必死で戸を押さえたのもむなしく、ヒグマは三太郎さんごと戸を押し倒して侵入した。
家にいた全員が狂乱に陥り、ヒグマは囲炉裏の火を恐れることなく暴れまわった。
そして、ウメさんを見つけるとその体をくわえて家から引きずり出してしまったのである。
『新編沼田町史』にはそのようにあるが、北海道新聞社『ヒグマ』の記述に基づくと、ウメさんは戸外に残した與四郎さんを心配して外に出ようとしたところを襲われ、引きずられていったという。
三太郎さんは深手を負っていたにも関わらずどうにか妻を救おうとスコップで応戦するが、結局ヒグマを止めることはできなかった。
後年に録音された與四郎さんの音声証言によると、ヒグマはウメさんをくわえたまま山に消えていき、やがて「怖い」「痛い」という声が聞こえたという。
しばらくするとその声も聞こえなくなり、ヒグマがウメさんを喰らう「ガリ、ガリ」という音が聞こえたそうだ。
與四郎さんは、その後病院に運び込まれ、奇跡的に一命を取り留めた。
夜が明けて22日、息をころして屋内に隠れていた面々は、通りかかった村民に助けを求めた。
ウメさんの遺体は付近の藪の中で発見された。下半身が食いつくされたむごい状態だったという。
この事件では、村田幸次郎さん、村田ウメさん、そしてヒグマ討伐のために動いた長江政太郎さん、上野由松さんの4名が亡くなっている。
22日のうちに、惨劇は沼田町全域に知れ渡った。
翌23日には、熊撃ち名人として名高い砂澤友太郎をはじめ雨竜村(現在の雨竜町)の伏古集落在住の3人のアイヌの狩人が応援に駆けつけた。
そのうちの1人・長江政太郎(56)は凶悪なヒグマの話を聞きつけて憤慨し、「そのような悪い熊は、ぜひとも自分が仕留めなければならない」と、周囲が止めるのも聞かず単身でヒグマ退治に赴いたものの、山中で数発の銃声を響かせたきり行方知れずとなった。
24日、在郷軍人、消防団、青年団など総勢300人あまりの応援部隊が幌新地区に到着した。さらに、幌新、恵比島の集落民のうち60歳未満の男子が残らず出動し、村始まって以来のヒグマ討伐隊が結成された。
ところが、一行が山中に分け入ってまもなく加害ヒグマが現れ、討伐隊の最後尾にいた上野由松(57)が一撃で撲殺された。
ヒグマは折笠徳治 にも重傷を負わせ、咆哮を上げつつ別の討伐隊メンバーに襲いかかろうとした。が、現役除隊まもない軍人がとっさに放った銃弾が命中。
さらに鉄砲隊が一斉射撃を浴びせたことにより、凶悪なヒグマもついに倒された。
この現場のすぐそばで、23日に行方不明になっていた長江政太郎が、折られた銃と共に、頭部以外をすべて食い尽くされた状態の遺体として発見された。
ヒグマが討ち取られた時点で村田幸次郎、村田ウメ、長江政太郎、上野由松 の計4名が死亡し、林謙三郎、村田三太郎、村田与四郎、折笠徳治 の4名が重傷を負っていた。
加害クマは、体長2 m、体重200 kgの雄の成獣だった。解剖の結果、胃からは大きなざる一杯分にも及ぶ人骨と、未消化の人の指が発見された。
※与四郎(15)『新編沼田町史』では病院で死亡したとされていたが、実際には1986年(昭和61年)まで存命だった。
事件の原因
夏祭り帰りの一行が最初にヒグマに襲われた地点には、斃死した馬の死体が埋められていた。加害ヒグマは数日前よりこの死体を食べており、偶然現れた一行を「大事な餌を奪う敵」と見なし、排除に及んだのが事件の発端だと思われる。
その後このヒグマの毛皮は沼田町立幌新小学校に保存されていたが、1967年(昭和42年)に幌新小学校が廃校になったあとは幌新会館に移され、現在では沼田町郷土資料館に展示されている。
また、重傷を負った林謙三郎は、その後一度も山に入らなかったという。
21世紀の現在、沼田町は、北海道でも有数の米どころだが、明治の開拓以前は面積の8割を原生林に覆われ、まさにヒグマの天地だった。
この環境の中で開拓民とヒグマの接触事故は頻々と発生し、「開拓小屋にクマが侵入し、収穫したてのトウキビ(トウモロコシ)を食われた」「収穫間近のトウキビを一晩で一反(10アール)分食われた」などの逸話には事欠かない。
参考文献:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』『新編沼田町史』
北海道新聞社発行『ヒグマ』
本当に熊は恐ろしい!
今回、被害に遭われ亡くなった曽田圭亮さんのご冥福を祈ります。
(合掌)
