宮澤賢治は樺太を旅行している。悲しみを抱えて宮沢賢治は渡った
樺太で見つけた二つの「青」の意味
来たる7月23日(木)18:00~豊平会館で恒例の「フロンティア豊平21」主催の歴史講演会があり、講師の有馬尚経氏が「樺太の産業」について講演する。
爺さんは、樺太引揚者であり、見もせぬ故郷への望郷の念で一杯である。宮澤賢治は、教え子の就職あっせんを目的に樺太に渡り、製紙工場を訪問している(おそらく王子製紙工場)。
有馬氏の講演でも、製紙業の発展について語られるだろうから、宮沢賢治のことを前触れしておこうと思った。
1923年8月2日夜。
詩人・宮沢賢治は、北海道の稚内から稚泊(ちはく)連絡船に乗って、樺太の大泊(おおどまり、現・コルサコフ)へと渡る。
暗い夜の海を進む船上で、彼は前年に亡くなった最愛の妹トシの魂に向かって叫び続ける。
〈私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば/あらんかぎり大きな勇気を出し/私の見えないちがった空間で/おまへを包むさまざまな障害を/衝(つ)きやぶって来て私に知らせてくれ〉(宗谷挽歌〈ばんか〉)
こうも願う。
〈われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟(くきょう)の幸福にいたらないなら/いままっすぐにやって来て/私にそれを知らせて呉(く)れ。〉(同)
賢治とトシは深い信仰心で結ばれていた。死後の世界に行った妹に、彼は自分が進もうとする道が間違っているならば、こちらにやってきて、そう教えてほしいと乞うている。
樺太の大泊に着いた彼は、表向きの旅の目的である教え子の就職あっせんのため、製紙工場を訪れる。しかし、大泊での滞在時間はわずかで、今度は鉄道に乗って当時の日本の最北端の駅である栄浜(さかえはま)に向かう。
彼はそこで何を見たのか。
悲しみの中の夢中
「初めて乗った樺太の鉄道で賢治は何も書いていません」
樺太に3度通い、2020年に賢治の樺太旅行などをテーマにした書籍「サガレン」(角川書店)を刊行した作家・梯(かけはし)久美子さんはほほ笑む。
「悲しみの中にあっても、未知の土地の風物に魅了され、車窓の景色を見るのに夢中だったのでしょう」
5時間半の鉄道旅を経て、たどり着いた栄浜。
賢治は初めて訪れた極北の海岸で、水平線に延びる海の「緑青」と、雲のつぎ目からのぞく「天の青」という二つの青色を見つける。
* * *
そして、それまでの旅で記した詩とはまるで違う、不思議なほど透明感のある「オホーツク挽歌」を書く。
〈それらの二つの青いいろは/どちらもとし子のもつてゐた特性だ/わたくしが樺太のひとのない海岸を/ひとり歩いたり疲れて睡(ねむ)つたりしてゐるとき/とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない〉(オホーツク挽歌)
旅の前半で、妹がどこに行ったのか問い続けた彼は、樺太の海岸で見つけた海と空の二つの青に妹の特性を見つけ、トシの存在を直感する。
「賢治は鉄道や船で、二つの海峡を越えながら、生と死の境界をまたいだ。地理的な移動だけでなく、時間的な移動もそこにある。心の中で過去と現在を往還しつつ、体はここから別のどこかへ運ばれていく。そんな移動する文学の魅力が最大限に発揮されたのが、樺太旅行をもとに執筆された『銀河鉄道の夜』なのだと思います」
賢治が100年前に使った稚内・コルサコフ定期航路は、2019年から休止になっており、いまは渡れない。ウクライナ戦争の影響もあり、現地を訪れることもままならない。
宗谷岬公園にある「宮沢賢治文学碑」
〈世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない〉
そう誓った賢治の深意を、極北の宗谷岬で思う。
碑文
はだれに
暗く
緑する
宗谷岬の
たゝずみと
北はま蒼に
うち睡る
サガレン島の
東尾や
宮澤賢治詠
東大寺長老
清水公照書
碑について
1923年8月、賢治はこの年の5月に就航したばかりの「稚泊連絡船」に乗って宗谷海峡を渡り、樺太(サハリン)を旅しました。前年に亡くなった妹トシの魂の行方を訪ね、「オホーツク挽歌 詩群」を歌い上げた、傷心の北紀行です。
この際の宗谷海峡の船上における心象スケッチは、「『春と修羅』補遺」のなかに「宗谷挽歌」として残っていますが、ここで詩碑になっている「宗谷〔二〕」という文語詩も、この旅の体験をもとにして後年に書かれたものです。
往路の[稚内港→大泊港]も、復路の[大泊港→稚内港]も、どちらも夜に出航して早朝に目的地にに着くという日程ですが、作品の舞台はどちらかの船の上で、ちょうど夜明けを迎えようとしているところです。
碑になっている部分は、詩の第二連です。ここで船の前方と後方には、北海道の宗谷岬と樺太の亜庭半島が見えています。
時はまさに日の出の直前であり、まだ光の当たらぬ陸地が、緑と蒼の色彩の対比をなしています。宗谷岬が緑に見え、樺太が蒼く睡っているように見えるということは、船は北海道の方に近いのでしょう。夜明け前に北海道近くにいるということは、これは復路の[大泊港→稚内港]の船上である可能性が高いように思われます。
現在この碑が建っているのは、北海道の最北端宗谷岬にある小さな丘で、あたりは「平和公園」として整備されていました。
碑の背面には、次のような文章が刻まれています。
平和祈念碑
昭和十六年八月宗谷海峡警備のため宗谷要塞重砲兵連隊が創設され クサンルに司令部 大岬に連隊本部及第一中隊 西能登呂に第二中隊 野寒布に第三中隊 声問に第四中隊が配置された 我らは部隊要員として召集され 昭和二十年敗戦の日まである者は妻子と別れ ある者は青春を空しくし 寝食を忘れて任務に就き北辺の護りに励んだ 更に西能登呂要員は敗戦後もシベリアに抑留の身となり四年有余の辛苦の日夜を送った この間再び故国の土を踏むことなく白玉楼中の人となった七名の僚友の霊に対し深く哀悼し 魂鎮まらんことを念ずる
戦後四十年余の歳月は我らに望外の平和と繁栄をもたらしたが それは無辜の同胞らの償いのない犠牲の上に築かれたものであることを肝銘し不戦平和の祈りと 願いをこめて この碑を建立する
昭和六十年十月吉日
宗谷要塞重砲兵連隊宗谷会一同
このような趣旨の碑の碑文として、どういう経緯で賢治のこの詩が選ばれたのかは知りませんが、作品の底流にはやはり潜在的に流れている「挽歌」の雰囲気があり、たしかにこれは鎮魂の碑として、ふさわしいような気もします。こうやって眺めると、もはや異国となってしまったサガレン島に「うち睡る」、戦死者のことさえ思わせます。
今は「日本最北端の地」として観光スポットになっている宗谷岬ですが、第二次大戦末期には、南の沖縄と同じような最前線の戦局の地であったことを、あらためて思いおこさせてくれました。
日本の8月にはお盆があり、また終戦記念日と二つの原爆の日があって、現代の日本人にとっては「死者を思う月」ですが、賢治が8月に妹を探す旅に出たのも、「お盆に死者の霊が帰ってくる」という民俗的な思いが、どこか心の底にあったのではないだろうか…、



