上毛野田道 | dai4bunkuのブログ

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上毛野田道

古墳時代、

生誕不明、死没不明、別名 田道将軍、主君 仁徳天皇、 氏族 上毛野君、下毛野君同族、

父母 大荒田別命 兄弟 竹葉瀬命

 

 

菊池容斎筆『前賢故実 巻第一』「田道」

 

        国立銀行が発行した兌換紙幣一円券(第二国立銀行発行)。表面(上段)の

        右に田道が描かれる。

 

 田道(たぢ、生年不詳 - 仁徳55年)は、仁徳朝の武人。田道の氏姓に関して『日本書紀』には記述されないが、『新撰姓氏録』には田道公(君)「と表記され、姓は公(君)とされる。

 

 仁徳53年に新羅が朝貢を怠ったため、まず兄の竹葉瀬を詰問使として遣わし、続いて田道が兵を率い遣わされ新羅の兵を撃破した。

 またその時、四つの邑の住民を捕虜とし連れ帰っている。

仁徳55年、蝦夷(えみし)が反乱を起すと田道が遣わされるが敗れ伊峙水門(いしのみと)で戦死した。従者は田道が手に巻いていた遺品の玉を妻に与えた。妻は悲しみ縊死した。後に蝦夷が田道の墓を掘り起こすと、その中から大蛇が現れ次々と噛み付きほとんどの者が死亡したという。

 

 蝦夷(えみし)を討伐するために北方へ派遣された田道は、後に北海道や東北にて、開拓神として信仰されるようになった。 田道を祀る主な神社は以下の通りである。

·        猿賀神社  ·        豊平神社  ·        信濃神社

 

 1873年(明治6年)に発行開始された国立銀行紙幣の兌換一円券の表面右には、田道の図が描かれた。

 なお、この紙幣の図柄については2種類の説が存在している。一説は上毛野田道が蝦夷の奇襲攻撃を受ける光景、もう一説は源為朝が工藤茂光の軍船を迎え撃つ光景とされる。

 ただし、海岸で大型の弓を構える上毛野田道(または源為朝)の表面右側の図柄については、胴体と比べて頭部が異常に大きく描かれており人物像としては異様な意匠となっている。

青森県平川市の猿賀神社や、宮城県石巻市の鳥屋神社には、田道に関する伝承が存在する。

『日本書紀』の記述に従えば、大荒田別命の子で竹葉瀬の弟となる。

 

☆ ☆

青森県 猿賀神社伝承由緒

 

上 毛 野 君 田 道 命(崇神天皇五世孫)
(かみつけぬのきみたみちのみこと)

 

 古典(日本書紀)によれば田道命は「仁徳天皇五十五年(西暦三六七年)勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。

 後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「五十六年蝦夷(えみし)の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。

 蝦夷(えみし)その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。

土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。

 

 その後、二百年の星霜を経て、欽明天皇二十八年(五六七年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている。

 桓武天皇の御代に再び暴夷を平定することになり、坂上田村麻呂征夷将軍が兵を進め苦戦となった際、田道命の霊感を受けて大勝した。

 よって将軍は延暦十二年(七九三年)八月二十三日現在の地に祠を祀り、その趣を天皇に奏上した処、勅命により、大同二年(八〇七年)八月十五日社殿を造営、奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。

 

 以来猿賀の深砂宮(神蛇宮)と崇められ御神徳四方に遍く、地方唯一の霊場と仰がれるに至った。かつては国司、探題、(藤原秀衡公、北畠顕家卿、阿倍氏代々等)の崇敬篤く、藩政時代に入り藩主津軽為信公により、祈願所と定められ社殿の改修造営、また社領の寄進などしばしばであった。

 

 明治四年太政官政令にて権現号を廃して猿賀神社と改称し、明治六年郷社に列せられ、更に明治十三年県社に昇格、戦後は社格が廃せられたが、 昭和三十四年神社本庁別表神社に加列せられ今日に及んでいる。

崇敬者は県内は勿論、北海道並に東北一円に及び眼の守護神とする特殊信仰並びに、辰年、巳年生まれの守護神として広く崇敬されている。

 

豊平神社由緒

 当神社は上毛野田道命・大山衹命・倉稲魂命の三柱を奉斎する。
主祭神上毛野田道命は、崇神天皇の皇子豊城入彦命より五代目の子孫にして東北地方の守護神として厚く崇敬せられ、特に延歴年間征夷大将軍坂上田村麻呂が奥羽地方平定に向かわれた時、田道命の神霊の御加護によりこれを平定することができ、後に今の青森県南津軽郡猿賀山に神霊を観請して社殿を建立したもので、猿賀神社は当神社の本社に当たる。

 

 古典(日本書紀)によれば田道命は「仁徳天皇五十五年(西暦三六七年)勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「五十六年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化 して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。

 その後、二百年の星霜を経て、欽明天皇二十八年(五六七年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている。
 当地域は東北地方移住者多く、それゆえに故郷の氏神様をお祀りしたものである。
さらに当豊平地区は開墾の途上で森林遠く連なり、これが伐採に大山衹命を祀り、開墾進み沃野美田の広がりに行くにつれて倉稲魂命(稲荷大神)を合祀して豊平地区の氏神様して奉斎され現在に至る。

御祭神

上毛野田道命(かみつけのたみちのみこと)

 開拓の神、交通守護神、農業・漁業・諸産業の神・武運長久。
 日本武尊以来の悲願として蝦夷(えみし)征伐に向かった武将、伊峙水門で戦死、死後墓から大蛇が出て死傷者を出したことから怨霊神として恐れられたという言い伝えがある。
 本社の主祭神であり、青森県よりの移住者阿部仁太郎によって郷里の猿賀神社から合祀された。

大山衹神(おおやまつみのみこと)

山林の神。
大山を司る神、山の神の総元締の山神、金運の神。
入植当時は豊平地区一帯が森林で、毎年多くの木材を切り出していたことから祭られた。

倉稲魂神(うがのみたまのみこと)

衣・食・住の神、商売繁盛の神、五穀豊穣の神。
田畑の神で、田畑を開墾するにあたって祭られた。

 

爺さん:豊平第八祭典区の山車は、豊平神社と同神社奉賛会(山車保存会)の共有の文化財である。豊平の山車は、資料によれば、大正元年に制作され、山車人形も義経、弁慶、菊水、加藤清正等の人形数体があったが、もっぱら加藤清正の豊平と言われてきた。

 時の経過とともに、清正人形も傷みが進み、新たに上毛野田道命人形を製作したもので、6月7日豊平神社で組み立てが行われ、魂入れの神事が行われた。