織田信長殺される -- 本能寺の変
1582年(天正10)、織田信長は、毛利勢を滅ぼすべく備中高松城で苦戦をしている羽柴秀吉に、明智光秀の援軍を差し向けた。
しかし、光秀は播磨へは向かわず京都の町に入る。
戸惑う部下たちに「わが敵は中国に無し。京都四条の本能寺にあり。急ぎ攻め討て」との命を下し、謀反を決行。
6月1日の未明、不意討ちをくらった信長は、無念のうちに自刃して果てた。死に際に、生前好んで歌い舞った『敦盛』の一節「人間五十年 下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり 一たび生を得て 減せぬもののあるべきか」を口ずさんだという。享年49歳。
能と幸若舞に描かれた「敦盛」の物語
能と幸若舞に取り上げられ、信長をはじめ多くの武将に好まれた演目「敦盛」とはどんな物語だったのでしょうか。
平敦盛は平安時代末期の武将で、平経盛の子。
平氏政権を打ち立てた平清盛は叔父に当たります(清盛と弟の経盛は異母兄弟)。
官位(身分のランク)は貴族として認められる一番下の従五位下(じゅごいのげ)で、官職についていなかったので「無官の大夫(むかんのたいふ/たゆう)」と呼ばれました。
一番下の位、というのもむべなるかな、この敦盛が一ノ谷の合戦に参加し、源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)に首を取られ討死したのが、わずか17歳(16とも)。
現代の成人式である元服(げんぷく/げんぶく)が当時は12~16歳ごろに行われたとはいえ、あまりにも早く、あまりにも短い生涯です。
また一番下の位とはいっても平安時代の貴族と呼ばれる人々は、当時の人口の0.003%程度だったという統計もあり、敦盛がいかに家柄、血筋に恵まれていたかは推して知るべしでしょう。
能および幸若舞の「敦盛」の典拠である『平家物語』では「敦盛最期」という一段をもって、この平家の公達(きんだち、貴族の子弟のこと)の最期が語られます。
『平家物語』「敦盛最期」より
取つて押さへて首をかかむと甲(かぶと)を押し抑(あおの/の)けて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して鉄漿黒(かねぐろ)なり。我が子の小次郎が齢(よわい)ほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。
『平家物語』「敦盛最期」意訳
討ち取って名を上げるための良い敵を見つけた、と勝負を仕掛けてみれば相手は自分の子供ほどの年齢の若武者で、どこに刀を刺してよいものかもわからない、と直実は狼狽します。
この後、直実は思い悩んだ末、命を助けようとして名を尋ねますが、若武者は答えず「ただ首を取って人に問え」と言うばかり。やがて駆けつけてくる味方の手前、助けることもできなくなり、他の人間の手にかけるよりは、と泣く泣く首を取ります。
しばらくさめざめと涙を流していた直実でしたが、さて直垂(ひたたれ)を脱がせて首を包もうと遺骸をあらためると、若武者は錦の袋に入れた笛を腰に差していました。
「この明け方に聞こえてきた音楽は、この若武者たちが奏でていたのか。今、味方の坂東武者が何万人いるかわからないが、戦場に笛を携えてくるものなど一人もあるまい。なんと心優しい人々だ」
そう呟いて、直実はさらに心打たれるのでした。
果たして陣中に戻り、この笛を見せると大将・源義経をはじめとして涙を流さない者はいません。
直実は自分が討ち取った若武者が、笛の名手として知られた平敦盛であったことを知り、出家の決意を強くするのでした。
敦盛が最後まで携えていた笛は「小枝(さえだ/青葉の笛とも伝わる)」と名付けられた名笛(めいてき)でした。
『平家物語』のこの段をもとに、能では出家して蓮生(れんしょう/れんせい)と名乗った直実が、一の谷で敦盛の亡霊と出会う後日譚として、また幸若舞では合戦の前後を付け加え、心理や情景の描写を詳細に描き、直実が出家しその生涯を終えるまでの発心譚(ほっしんたん、仏道をこころざす物語)として脚色しています。
悲劇のヒロイン、ヒーローの物語というものは誰しもが好むものです。『平家物語』では日本でもっとも有名な悲劇のヒーローである源義経のことも語られます。
他の軍記物語や芸能にも取り上げられ、「判官びいき」という言葉が生まれるほど、義経の物語は広まりました。
そうした中、なぜ信長をはじめとした多くの戦国武将たちは「敦盛」の物語を愛好したのでしょうか。想像するよりほかはありませんが、その理由には「敦盛」には、はかなさといさぎよさがあるからかもしれません。
平敦盛は初陣の一の谷で戦死したため義経のような武勲は無く、ヒーローと言える要素はありません。
しかし、死を目の前にして「ただとくとく首を取れ」と言い放ついさぎよさには、単に平家の名門に生まれたおぼっちゃまとはいえない芯の強さがあるように思います。
また敦盛の短すぎる生涯には、はかなさがあります。これは『平家物語』全体のテーマでもありますが、「世の無常・無常観」ということを物語るものだと思います。
幸若舞「敦盛」の「人間五十年」の一節は直実が出家を決意する場面のもので、とても出陣を鼓舞するような内容ではありません。ではどうして信長は、この一節を舞って戦場に赴いたのか。幸若舞や能に残された「敦盛」に触れることで、その答えの一端が垣間見えるかもしれません。
爺さん:人間生を得て死なぬ者はない。諸行無常
それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきことは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず。
一生過ぎやすし。今に至りて、誰か百年の形体をたもつべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫、末の露よりもしげしと言えり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬる時は、六親眷属集まりて、嘆き悲しめどもさらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
蓮如上人



