北原 白秋
本名:北原 隆吉(きたはら りゅうきち)、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日)は、詩人、童謡作家、歌人。帝国芸術院会員。
詩、童謡、短歌以外に、新民謡でも『ちゃっきり節』など傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表し活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並び評される近代日本を代表する詩人である。
弟はそれぞれ出版人となり、北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエを創業した。娘は三菱財閥創業家・岩崎家の末裔に嫁いだ。従弟の北原正雄は写真系の玄光社を創業した。
有名な童謡等
· 雨降り· 揺籃のうた· 砂山· からたちの花· この道· ペチカ
· あわて床屋· 待ちぼうけ· 城ヶ島の雨
1940年(昭和15年)が神武天皇が即位してから2600年に当たることから(『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は西暦紀元前660年2月11日)、日本政府は1935年(昭和10年)10月1日に当時の内閣総理大臣岡田啓介(岡田内閣)を会長とする「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。
この準備委員会は、のちに阪谷芳郎を委員長とする「紀元二千六百年祝典評議委員会」が設置されると廃止された。また、内閣に設けられた「内閣紀元二千六百年祝典事務局」の局長には飯沼一省が、のちに歌田千勝が就いた。
1937年(昭和12年)4月24日、内閣総理大臣官邸において「紀元二千六百年奉祝会」創立委員会が開催され、紀元二千六百年奉祝会会則を決定。同年7月1日に「紀元二千六百年奉祝會設立及監督規程」(昭和12年閣令第3号)が公布され、同年7月7日に財団法人「紀元二千六百年奉祝会」(総裁:秩父宮雍仁親王、総裁代理:高松宮宣仁親王、副総裁:内閣総理大臣・公爵近衛文麿、会長:徳川宗家第16代当主・公爵徳川家達、副会長:侯爵佐々木行忠)が設立された。
1938年(昭和13年)4月10日、明治神宮外苑競技場で秩父宮臨席のもと、紀元二千六百年奉祝会の総裁奉戴式と祝賀会が開催された。
1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、2月11日の紀元節(現在の建国記念の日)には全国11万社もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。
橿原神宮の整備には全国の修学旅行生を含め121万人が勤労奉仕し、外地の神社である北京神社(中華民国北平)、南洋神社(南洋諸島パラオ)、建国神廟(満洲帝国新京)などもこの年に建立され、神道の海外進出が促進された。
また、同年11月9日に内務省神社局が昇格し神祇院が内務省の外局として設置されたほか、研究・教育機関では神宮皇學館が旧制専門学校から旧制大学に昇格した。
1940年(昭和15年)6月9日‐14日、昭和天皇は紀元二千六百年祝典の開催を奉告するため関西行幸。豊受大神宮、皇大神宮、神武天皇畝傍山東北陵、橿原神宮、仁孝天皇後月輪陵、孝明天皇後月輪東山陵、英照皇太后後月輪東北陵、明治天皇伏見桃山陵、昭憲皇太后伏見桃山東陵を、帰京後は大正天皇多摩陵を親拝した。
1940年(昭和15年)11月10日、宮城前広場において昭和天皇・香淳皇后臨御のもと、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられ、国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせてドイツ、イギリス、イタリア、フランス、ハンガリーの作曲家5人が「皇紀2600年奉祝曲」を作曲した。
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ここに北原白秋が出てくる。
当時の音楽系雑誌に記録されていた。
「皇紀2600年の奉祝曲を我が国に寄せた盟邦独逸のシュトラウス(皇紀二千六百年祝典曲)、伊太利のピツェッティ(交響曲イ長調)、仏蘭西のイベール(祝典序曲)、匈牙利のヴェレッシュ(交響曲)四作曲家に対し種々の答礼方法が考えられていたが、今回日本文化中央聯盟が作品による返礼を行うことになった。
同聯盟は昨年催したる奉祝芸能祭に演奏した曲の中から制定曲北原白秋作詞、信時潔作曲の交声曲「海道東征」を最も適当なるものとして選択、(昭和16年1月??←書いていない)11日午前9時から上野の東京音楽学校で木下保氏指揮の同校管絃楽団及び男女並びに児童合唱団総員500余名がレコードに吹き込み。
このレコードと更に同聯盟が年四回発行する英文雑誌「カルチュラル・ニッポン」の春季号に同曲及び英訳歌詞を掲載し同時に寄贈することになった。同曲は演奏時間50分にわたる大曲で12吋盤で10面に及ぶものであり、かくの如き長時間の連続演奏吹込みも空前のこととされている。なお同聯盟ではこのレコード及び和文、英文両歌詞並びに曲を各国文化団体へも寄贈することになった。」とある。
白秋は
朗誦詩「紀元二千六百年頌」を作詞していた。
盛りあがる盛りあがる國民の意志と感動とを以て、盛りあがる盛りあがる民族の血と肉とを以て、個の十の百の千の萬の億の底力を以て、今だ今だ今こそは祝はう。紀元二千六百年、ああ遂にこの日が來たのだ。
蕩々たる空、藹々たる土、洋々たる海。和風おのづからにして、麗光十方に布く。日の天にあるかくのごとく、民の仰いで霑ふかくのごとく、悠久二千六百年、祝典の今日が來たのだ。
ラヂオは傳へる式殿の森嚴を、目もあやなる幢幡、銀の鉾射光の珠を。嚠喨と鳴りわたる君が代の喇叭。金屏の前に立たします。
聖天子、澄みに澄みとほる靈氣、聲ひとつせぬ五萬の呼吸、崇高なるこのひと時。靴音である。畏みに畏む總理大臣の靴音がする。奉る朗々たる壽詞。湧きあがる湧きあがる 天皇陛下萬歳。
皇禮砲はとゞろきわたつた。帝都は彩光に輝き、港灣は滿艦飾した。宮をあげての簫篳篥、浦安の舞。國をあげての日章旗、神輿、群衆。祝祭は氾濫し、ああ熱情は爆發した。轟けと、轟けとばかりに叫ぶ大日本帝國萬歳。
光あれ、輝きあれ、大日本。神國日本の姿はここにある。仰げよ萬世一系の皇統、巍々たる皇謨は無限に坐す。ああ、八紘一宇、肇國の青雲は頭上にある。
かの正しきを養ひ、暉を重ね、慶を積む。皇祖皇宗はこの徳に坐し、神ながら道に蒼古に、あやに畏き高千穗の聖火は今に燃え繼いで盡くるを知らぬ。(火だ、まさしく民族の祭典の火だ。)思へ、天業恢弘の黎明、鎭みに鎭む底つ岩根の上に宮柱太しき立てた橿原の高御座を、人皇第一代神倭磐余彦の天皇を、ああ、大和は國のまほろば、とりよろふ青垣、鵄は舞ひ、朗かにおほらかに草も木も言祝ぎ謳つた。
ああ、我が民族の清明心、正大、忠烈、武勇、風雅、廉潔の諸徳。精神は一貫する。傳統は山河と交響し、臣節は國土に根生ふ。大義の國日本、日本に光榮あれ。
展け。世紀は轉換する。躍進更に躍進する。興隆日本の正しい相、この體制に信念あれ。
いにしへ、仇なすは討ちてしやみ、まつろはぬことむけ和した。砲煙のとどろき、爆彈の炸烈する、もとより聖業の完遂にある。大皇軍の征くところ必ず宣撫の恩澤がある。げにや隈なく御稜威は光被する。鵬翼萬里、北を被ひ、大陸を裏み、南へ更に南へ伸びる。曠古未曾有の東亞共榮圈、ああ、盟主日本。
盛りあがる盛りあがる國民の意志と感動とを以て、盛りあがる盛りあがる民族の血と肉とを以
て、今だ今だ今こそは三唱しよう。聖壽の萬歳を、皇國の萬歳を。紀元二千六百年の今日、祝典は氾濫する。熱閙は光と騰る。進め一億、とどろく皇禮砲の下より進め。大政翼贊の大行進を始め。行けよ皇國の盛大へ向つて、世界の新秩序へ向つて、人類の福祉に萬邦の融和に向つて。
一齊にとどろかす跫音を以て、個の十の百の千の萬の億の、靜かな底力を以て。
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ただ、長引く戦争による物資不足を反映して、公式行事参加者への接待は簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスターに書かれた「祝ひ 終つた さあ働かう!」(祝い 終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はさらに厳しさを増していくことになる。
海道東征については、日本神話の物語の詩で長編である。折を見て、次回以降に紹介したい。
