第九」初演200周年記念ベートーヴェンの人生と受け継がれる交響曲第9番 | dai4bunkuのブログ

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「第九」初演200周年記念ベートーヴェンの人生と受け継がれる交響曲第9番

 

 

 1824年5月7日、ウィーンでベートーヴェンの交響曲第9番が初演されてから、今年でちょうど200周年。

 日本では「第九」として親しまれ、年末のコンサートをはじめ、今でも世界各地で演奏され続けている名曲中の名曲だ。

 そんな記念年にベートーヴェンの人生を振り返るとともに、実は日独交流の懸け橋ともなった「第九」に残されている数々のエピソードに注目する。

 

(文:ドイルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven
(1770-1827)ハイドン、モーツァルトと並び、ウィーン古典派を代表する作曲家。

 

 宮廷音楽家ではなく、貴族から援助を受けてフリーランスとして活躍。聴覚を失うなどの苦難を克服し、傑作を数多く残した。その後現代に至るまで、多くの音楽家に影響を与え続けている。

 

 ベートーヴェンが生きた時代は、頻繁に引越すことは今日よりも一般的で、住宅は家具付きが基本だった。

 とはいえ、ウィーンに暮らした34年の間に、分かっているだけでも街中で24軒、夏場を過ごす郊外では29軒の家に移り住んだというのは、異常である。

 

 理由は定かではないが、ベートーヴェンは田舎や自然を愛していたため、5~10月はウィーンではなく郊外の村や小さな街に行き、毎年違う家に滞在したという。

 田舎の美しい風景が描かれた交響曲第6番「田園」(1808年)は、自然豊かなハイリゲンシュタットに住んでいる間に作曲された傑作だ。

 

 1826年秋、ベートーヴェンは肺炎を患い、肝臓にも問題を抱えていた。肝臓病の原因は、ワインの飲みすぎではないかと指摘されている。

 やがてお腹に水腫ができ、何度か手術をして水を抜き取ったものの一時的に痛みがなくなっただけで、ベートーヴェンはどんどん衰弱していった。

 そして、1827年3月26日の午後、ベートーヴェンは56歳で息を引き取った。葬式はその3日後だったにもかかわらず、各人に招待状が送られ、当日は学校も閉鎖された。参列者の数は2万人に上ったといわれており、新聞でも大きく報じられたという。

 

 日の目を見ることなく一生を終える作曲家もいるが、ベートーヴェンは同じ時代を生きた人々にとっても偉大な音楽家であり、当時その死がどれほどセンセーショナルな出来事だったかが伝わってくるエピソードだ。

 

☆ ☆

 1918年6月1日、徳島県鳴門市・大麻町(当時の板東町)にあった板東俘虜収容所でベートーヴェン交響曲第9番が、日本はもとよりアジアで初めて全曲演奏された。

 鳴門市では毎年6月1日を「『第九』の日」として、6月の第1日曜日に演奏会を開催してきた。 

 その活動は日本のみにとどまることなく、ドイツで「『第九』里帰り公演」が行われたことも。国境を越えて紡がれる日独の交流を探る。

 

徳島オーケストラのメンバー

 そもそも「第九」はどんな作品?

 ベートーヴェンの九つ目にして最後の交響曲である「第九」は、1822年から1824年にかけて書かれた。

 最終楽章に詩人フリードリヒ・フォン・シラー(1759 - 1805)の「歓喜の歌」を用い、交響曲として初めて合唱を取り入れたことは、音楽史において重要なマイルストーンとなった。

 

 初演は1824年5月7日、当時ウィーンの宮廷歌劇場であったケルントナートーア劇場で行われ、センセーションを巻き起こした。

 「第九」はしばしば平和のシンボルとして演奏され、今日も人々を魅了し続けている。2001年には、ユネスコの記憶遺産プロジェクトである「Memory of the World」に登録された。

 

 

「第九」初演の歴史を紐解く板東俘虜収容所の奇跡

 鳴門市とドイツの交流の起源は1917年までさかのぼる。

 1914年に始まった第一次世界大戦で、英国と同盟を組んでいた日本がドイツに宣戦布告。

 ドイツ兵が東アジアの拠点としていた中国・青島を攻略した「青島の戦い」により、約4700名ものドイツ人捕虜が日本各地の収容所に送られた。

 そのうちおよそ1000人が徳島県板東町にあった板東俘虜収容所に収容されることになる。

 

 世界大戦当時、敵勢である外国人たちに対し劣悪な住環境で過酷な労働を強いるような強制収容所があったなか、板東俘虜収容所は規則の範囲内でドイツ人捕虜たちに自由を与え、地元民との交流も許した模範的な収容所だった。

 

 このような配慮には、板東俘虜収容所の所長を務めていた松江豊寿の存在が大きかった。

 

 彼の父親は明治維新の反乱軍であった会津藩の出身であったことから、松江所長本人も汚名を受けながら苦しい生活を送っていたというバックグラウンドを持っていたため、敗者が味わう屈辱を痛いほど理解していたのだ。

 そのため、施設が閉鎖されるまでの間、徹底した人道的管理の下、ドイツ兵捕虜に自由を与え、住環境の改善に尽力した。

 

文化活動を通じて育まれる日独の絆

 松江所長の自由を重んじる方針に加え、徳島が四国88カ所霊場を巡る「遍路」の文化が根付く土地柄もあり、住民たちは「お接待」といわれるおもてなしの心を大切にする風習があった。

 そのことから、地元の人々はドイツ人捕虜たちを「ドイツさん」と親しみを込めて接し、多くの場面で交流を図っていたという。

 畜産や製パンの技術指導、スポーツや芸術の指導など、捕虜たちは自国の技術や文化を板東町の人々に伝えた。

 

 また、板東俘虜収容所内での活動としては、所内新聞「ディ・バラッケ」の定期発行、菓子店や商店街を営むなどの商業活動、日本ではまだ珍しかった鉄棒や鞍馬、組体操といった競技を取り入れたスポーツ活動、オーケストラや合唱団を結成し演奏会を開いたり、地元民向けの音楽教室を開くなどの音楽活動に精を出していた。

 

 上記の活動の中でも特に活発だったのが、音楽活動った。以前、音楽隊に所属していた捕虜たちを中心に結成されたのが、パウル・エンゲル率いるエンゲル・オーケストラと、ヘルマン・ハンゼンが指揮を執る徳島オーケストラだった。

 彼らは週に1度のペースで定期演奏会を開き、ここで生活をしていた約2年10カ月の間に100回以上、約300もの楽曲を演奏したという。定期的に開催される演奏会は、ドイツ人捕虜たちにとって心のよりどころでもあったようだ。

 

1918年6月1日「第九」初演を迎えて

 このように精力的な音楽活動を続けるなか、定期演奏会の一環として1918年6月1日に行われたのがベートーヴェン「第九」のアジア初となる全曲演奏会だった。

 板東俘虜収容所には男性しかいなかったため、本来であれば女性パートであるソプラノ部分を男性用に編曲したり、収容所にない楽器をオルガンで代用して演奏したりするなど、工夫を重ねての試みとなった。

 

 当時、世界各地で争いが起こっていたなか、「alle Menschen werden Brüder」(全ての人々は兄弟になる)という歌詞の一節に代表されるような平和や愛という普遍的なテーマを含む「第九」が選ばれたことは異例のこと。

 しかし、板東俘虜収容所での生活環境や地元の人々とのふれあいによって、国境を越えたつながりを感じずにはいられない出来事ではないだろうか。

 

 また、演奏会のプログラムには、ベートーヴェンやヨハン・シュトラウスが作曲した楽曲が多く含まれており、ベートーヴェンの音楽の精神性と、シュトラウスの音楽の娯楽性がドイツ人捕虜たちにとって必要なものだったのではないかと考えられている。

 

 演奏は収容所内で行われたため、板東町の人々が実際に演奏を聴くことはできなかった。

 しかし西洋音楽の発展に貢献した徳川頼貞が初演から2カ月後に第1楽章の演奏を収容所で聴き、感銘を受けたことを自身の著書『薈庭楽話』で明かしたことから、1940年代頃に「第九」の初演について多くの人に広く知られるようになった。

 

「第九」初演のキーパーソン、ヘルマン・ハンゼン

 指揮者として徳島オーケストラ(後にMAK オーケストラに改称)を率い、「第九」初演を成功へ導いた重要な人物が、前述のヘルマン・ハンゼンだ。自由な活動が許可されていたとはいえ、祖国ドイツから遠く離れた日本ではまだまだ楽器や楽譜が乏しかった状況下でも、演奏会を重ねるごとに自身のオーケストラを立派な楽団へとまとめ上げ、在任中には36回もの演奏会の指揮を務めた。

 

 彼が開催する演奏会は異国の地で暮らす捕虜たちに娯楽を与えるだけでなく、彼が紡ぐ楽曲の数々には、音楽を楽しむことの幸せや内面的な高揚を与えてくれるような要素もあったという。

 

 徳島俘虜収容所新聞「徳島アンツァイガー」には、以下のような人物評が掲載されており、彼が板東俘虜収容所内で多くの人から慕われていた人物であったことがよく分かる。

 

「夏になると通俗的な音楽の演奏会が定期的に行われ、明るく軽やかなメロディーが爽やかな空気を運び、冬になると古典音楽に傾倒する傾向にあった。彼の活動の頂点をなすものは、疑いもなく6月1日に行われた『第九』の演奏と、ワーグナーのコンサートだろう。ハンゼン氏のような有能な音楽家にしても、何の苦労もなく活動できる類のものではなく、小さな作業を苦労しながら根気よく続けることが必要だったことだろう。そして何より仕事に対して真心を持った人物だった」

 

脈々と受け継がれる現在の「第九」の姿

 100年以上の時を経た現在も鳴門市で行われている「第九」の演奏会。毎年行われるようになったのは、1982年5月15日の鳴門市制施行35周年・鳴門市文化会館落成式記念行事として、第1回目のベートーヴェン「第九」交響曲演奏会が開催されたことがきっかけだった。

 この演奏会後、市民からの「あの感動をもう一度」という声に応える形で演奏の継続が決定。

 以降、板東俘虜収容所で行われた『第九』のアジア初演の日にちなんで、6月1日を「『第九』の日」とし、毎年この時期に演奏会を行っている。

 

 また、ドイツでも定期的に「『第九』里帰り公演」が行われ、ドイツ兵捕虜の子孫も演奏会に駆け付けるなど、日本のみならずドイツでもその歴史が語り継がれている。

 

 鳴門市では板東俘虜収容所の史実を通して歴史的背景や友愛の心を理解し、この地が「第九」のアジア初演の地であることに誇りを持ち郷土を感じられるよう、若い世代にも受け継いでいく。こうして100年前に始まった日独の絆は、今、次世代へとつながれていく。