歴史の豆知識
① 刀伊の入寇
1019年(寛仁3年)3月27日(または28日)、刀伊はおよそ3,000人を乗せた約50隻の船団で対馬を急襲。島内で略奪を繰り返し、島民の殺害や放火を行ったのです。
一説によると、対馬では36人が殺され、346人が拉致されたと言われ、牛馬などの家畜は
食料にされました。
さらに刀伊は壱岐も襲い、壱岐では国司(こくし/くにのつかさ:地方行政の長)である壱岐守「藤原理忠」(ふじわらのまさただ)を中心として応戦しますが、藤原理忠を含む148人が殺され、239人が拉致されています。難を逃れた島民はわずかに35人でした。
壱岐の国司・藤原理忠は討死にしましたが、対馬の国司である「対馬守遠晴」(つしまのかみとおはる)は生き延びて島から脱出し、大宰府へ刀伊来襲の報告をしています。
この一報がもたらされたのが、1019年(寛仁3年)4月7日。大宰権帥である藤原隆家が指揮を執り、刀伊を迎え撃つことになるのですが、これは藤原隆家も戸惑う前例のない非常事態でした。なぜなら、日本側には刀伊の入寇ほど大規模な侵略を経験した者はほとんどいなかったからです。
② 元寇
1266年(文永3年)、元(旧モンゴル帝国)から1通の「国書」(手紙)が届きました。モンゴルの歴史書「元史」には、その手紙の内容が残されています。
「こいねがわくは今後両国が友好関係を結び、互いに親睦を深めたい。通じ合わないで、どうして一家と呼べるだろうか」と始まり、「不宣」という言葉で締めくられた短い文です。
日本に国書を出したのは、モンゴル帝国第5代皇帝「フビライ・ハン」(クビライ・カアン)。モンゴル帝国がフビライ・ハン政権のもと本格的に動き、国号を「元」とした矢先のことでした。この文書から分かるように、元から日本へ友好関係を呼びかけています。
ちなみに、不宣は元が使用していた対等な相手にのみ使う言葉。しかし、日本は歩み寄ってきた元の幾度にも亘る国書を、ことごとく無視しました。
日本が国書を無視した理由、それはある国との繋がりにありました。
実は、鎌倉幕府は南宋から招いた外交政策相談役と繋がっていたのです。これを外交政策で唯一の情報源としていたため、元との国交は邪魔でした。当時南宋の僧侶だった「大休正念」(だいきゅうしょうねん)の言葉が残されています。
「巨大な敵を打ち払い、国家の安定をはかれ」
このような言葉で「北条時宗」に元の脅威を訴えたのです。これが5度に亘り国書を無視した理由です。1268年(文永5年)の3月。鎌倉幕府執権に北条時宗が就任したのち、日本全国にある文書を送ります。
「蒙古人がよこしまな考えを起こして日本を狙っている。すべての御家人達に用心するように伝えよ」
というような内容でした。
しかし、執権であった北条時宗は、国書が送られてきたときから、元には敵対姿勢を見せます。その後、最後の国書として、これまで何度も国書を出したが、その返事がいまだに返ってきません。このままぐずぐずしていると、われわれは兵を用意せざるを得ないというような内容を送ってきましたが、これも無視します。
権力のお披露目!?元寇(蒙古襲来)の1回目「文永の役」
元寇(蒙古襲来)
とうとう痺れを切らしたフビライ・ハン。1274年(文永11年)10月、ついに日本出兵を命令します。元は支配下であった高麗で900隻の軍艦を建造し、2万数千の兵力を投入。
元軍が博多湾の北部にあたる「息の浜」(おきのはま:現在の福岡県福岡市)に来襲しました。この出来事はのちに「文永の役」と呼ばれています。そのとき、博多湾に集まった日本の兵はわずか3,000騎ほど。
さらに日本と元の戦い方には、大きな差がありました。
まず、日本は、開始の合図として「かぶら矢」と呼ばれる矢を放ってから、「やあやあ、我こそは」などと名乗り、1対1で戦う戦法。
元軍は「銅鑼」(どら)を打ち鳴らし、集団で1人の武士に襲い掛かるという戦法でした。これにより、1人また1人と兵が討ち取られます。
さらに、「てつはう」と呼ばれる爆弾や毒矢などで元軍が攻撃してくるため、日本兵は成す術がありません。「てつはう」は、火薬が爆発すると鉄の破片が飛び散るとても危険な物でした。日本には、まだ爆弾や毒矢がない時代です。
これにより、博多はあっという間に占領されてしまいまし
元軍が撤退したのはなぜ?
博多を占領した元軍。しかし、元軍は翌日になると日本から撤退します。
その答えは、元軍が日本に来た目的にあります。元軍が来襲した真の目的は「圧倒的な強さを日本に見せつけて国交を結ぶこと」。
実際、文永の役が起こる前に元軍から日本へ送られてきた国書にも「兵力を用いるのは誰が望むだろう」という脅しとも言える内容が書かれています。
この目的により、博多は壊滅状態に。
1週間後、その報告を受けた第8代執権の北条時宗は兵の能力はもちろんのこと、防護力を上げることを決断します。
日本を再び襲撃!「弘安の役」はなぜ起こったのか?
これを簡単に説明すると、「国交を結ぶため送った元の使節5人が日本で処刑されたから」です。日本からしてみれば、博多が壊滅状態になったのに国交など結べないと考えました。これにより元は激怒。「もう仲良くする必要はない」となってしまったのです。
さらに、南宋もついに元の手に墜ち、次なる狙いは日本です。元が狙うのは貿易都市・博多。
1281年(弘安4年)5月に再び元軍が襲来しました。高麗から東路軍4万人と900隻、中国の沿岸からは江南軍10万人と3,500隻が日本に向けて出発します。
異国警固版役
しかし、2度目の襲来までに鎌倉幕府執権であった北条時宗は、「異国警固版役」(いこくけいごばんやく)と称し、兵力と防護力を着々と整えました。
異国警固版役としてまず行なったのは、防衛体制の構築。九州各地の沿岸に、20kmにも及ぶ高さ2mの防塁(石を積んだ防護構築物)を築きます。さらに西国の武士団が昼夜を問わず海岸沿いを警護。そして、兵力を上げるために、朝廷や有力寺社に従う御家人ではない武士も幕府の指揮下に置きました。
そして、戦法を変更します。まず、元の物より射程距離の長い弓を使用。北条時宗は、これにより元軍の上陸を阻止しようと考えたのです。さらに、元が得意としていた集団で1人の武士に襲い掛かる戦法を阻止するため、陸で戦うのではなく元寇船に乗り込み攻撃をする作戦に変更。
そして、北条時宗は元軍の情報収集を始めます。敵がいつ来襲するのかが分かれば、準備も行ないやすいと考え、元から国を追われて来日していた僧侶から元の情報を収集しました。1度目の屈辱をバネに日本の戦法がこのように工夫されたのです。
これらの進化した戦法や台風(暴風雨)、食糧不足などによって2度目の元軍の来襲は失敗に終わったとされています。
元軍の撤退は神風が理由ではなかった?
しかし、これらの元寇(蒙古襲来)においても「神風」の発生に関しては説が変わりつつあります。
まず1274年(文永11年)に起こった、第1の元寇(蒙古襲来)、文永の役についてですが、元軍が撤退したのは神風が起こったからではありません。
モンゴルや日本の歴史書にも「暴風雨が起こって元軍が撤退」とは書かれておらず、学校の教科書からもこの部分が消えつつあります。
2014年(平成26年)の歴史学者である服部秀雄教授が発表した内容によると、文永の役が起こったのは11月で、台風が発生する時期ではなく、起こるとしたら寒冷前線による嵐ぐらいだということ。
さらに、1281年(弘安4年)に起こった2度目の元寇(蒙古襲来)、弘安の役でも台風の時期であったとは言え、沈んだ軍船はごくわずかだったことも発表されています。
実は起こっていたかもしれない3度目の蒙古?
弘安の役が失敗に終わり、元軍は諦めたように思えますが、実はそうではありません。元は3度目の襲来も考えていました。
しかし、元の支配に反対する中国民衆の反乱やベトナムの抵抗などがあり、これは実現していません。もしも3度目の元軍による襲来が実現していたら、日本はそれを阻止することができたでしょうか?
長崎県松浦市鷹島町にある海の海底で、2011年(平成23年)に琉球大学の教授らが、ある沈没船を発見しました。
この沈没船は弘安の役で沈没した元軍の船です。2012年(平成24年)には、国の史跡に指定されています。さらに2014年(平成26年)にも2隻目となる沈没船を発見。沈没船の周りからは、中国製の茶碗や壷なども発見。
これらは、数百年も前から海底に眠っていた歴史的な財産なので、陸に揚げることはせず調査中です。元寇船の発見により、元軍のみならず、その周辺国との関係も分かってきています。
「元寇(蒙古襲来)」の浮世絵を観る




