清水寺が建立 798年8月17日 | dai4bunkuのブログ

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清水寺が建立

798年8月17日、京都府京都市東山区清水に清水寺が建立されました。

旧暦延暦1772

 平安遷都以前から建立されていた数少ない寺院のひとつ

でもある清水寺は、後に征夷大将軍となる坂上(さかのうえ の)田村麻呂(たむらまろ)の寄贈によって建てられており、当時は今日見られるような清水の舞台はありませんでしたが、

·        『枕草子』著:清少納言

·        『源氏物語』著:紫式部

·        『今昔物語』著:不詳

にも登場するなど

 歴史家当時から全国的に広く知られた寺社だったと考えられております。

また、清水寺は分かっているだけで、火事が原因で9回消失しており、都度都度修復・改修が行われ清水の舞台に代表される現在のような造りにほぼほぼ再建されたのは、江戸時代の寛永年代(1630年代)で 歴史家江戸幕府 第3代将軍徳川(とくがわ)家光(いえみつ)の寄進によるもの だとされております。

 

 

 

                仁王門

 

創建伝承

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館)『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

 宝亀9年(778年)に、大和国の興福寺の僧で当時子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。

 

 金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。

 年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」といい残して去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

 

 その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。

 田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。

 後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。

 その後、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(御賢心改め)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩の像を造り、共に祀ったという。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

 

平安時代以降

 延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。

 『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。

 

 清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。

 

 平安時代以来長らく法相宗の興福寺の支配下にあり、平安時代中期からは真言宗をも兼宗していたが、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。

 

 文明元年(1469年)には応仁の乱の兵火によって焼失し、その再建のために時宗の勧進聖願阿弥が迎え入れられた。

 願阿弥は清水寺入寺以前に橋や寺堂の再建、救恤といった事業に従事しており、その際に率いていた勧進集団や要人との人脈をもって再興事業に臨んだ。願阿弥自身は再興の完遂を見届けることなく世を去ったが、願阿弥の率いた勧進集団は寺内に地歩を築き、本願成就院として近世にいたる本願の出発点となった。

 

 豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵したが、江戸幕府になってもこの寺領は継承されている。現在の本堂は寛永6年(1629年)の火災の後、寛永10年(1633年)に徳川家光の寄進により再建されたものである。

 他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。

 

 近代に入り明治時代となると、神仏分離により本堂の真北にある地主神社が清水寺から独立した。また、明治時代初期に宗旨を真言宗醍醐派に改めたが、1885年(明治18年)に法相宗に復している。

 

 1914年(大正3年)には興福寺住職・法相宗管長であった大西良慶(1875年 - 1983年)が清水寺貫主(住職)に就任する。

 大西は1965年(昭和40年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。

 

 大西は1983年(昭和58年)、満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。

 「大西は1966年(昭和41年)に月2回の北法相宗仏教文化講座を開始、1974年(昭和49年)には日中友好仏教協会を設立するなど、仏教を通じた国際交流、平和運動、文化活動などに尽力した。

 

 次の貫主となった松本大圓は内部抗争により失脚した。現貫主は森清範が務めている。2023年に人事があり、森清顕が宗務長に、執事長は大西真興に代わり大西皓久が就いた。

 2015年(平成27年)には、10年かけて制作された絵巻物「清水寺平成縁起絵巻」が完成し、奉納された。

 

 寺の草創期から「平成の大改修」の完了までの1,200年を描いた絵巻物で、全長65m。作画は日本画家で京都嵯峨芸術大学名誉教授の箱崎睦昌。

 絵絹や裏彩色といった伝統技法を復活させて描かれた。戦火が多く描かれた室町時代の『清水寺縁起絵巻』とは異なり、何度も焼失と再建を繰り返した清水寺を支えた庶民の姿をテーマに描かれた