明治天皇の崩御 | dai4bunkuのブログ

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明治天皇の崩御

 

 明治45年(1912)7月30日、明治天皇の崩御を宮内省が発表しました。崩御当日、宮内省侍従職(じじゅうしょく)の日誌には「洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)ノ至ニ堪ヘス」と記されるなど、側近部局ならではの緊迫した様子が伝わってきます。

 

 時を移さず、天皇が朝政に臨まれない廃朝が5日間と決定しました。

 朱罫紙に宮内大臣渡辺千秋(ちあき)の署名・朱印のある奏請書には、天皇による裁可を指す「可」の朱印が押印されているのが見えます。

 続く8月6日には大喪儀(たいそうぎ)の期日・陵所が決定します。こちらは朱罫紙に宮内大臣渡辺千秋の署名・黒印のある奏請書に「可」の黒印が捺されています。

 

 両文書の様式が異なるのは、御服喪の期間中は黒色の印肉・罫紙を用いることと7月30日に決定していたためでした。つまり、後者は同日の決定前に立案されたものであったために罫紙のみが朱色であったと推測できます。

 

 さらに、伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)の陵名を決定した文書は8月7日立案であったことから、黒罫紙に宮内大臣渡辺千秋の署名・黒印がある奏請書に、「可」の黒印が押されています。

 このように文書様式の変化のみを辿って見ても、明治から大正への時代の転換を感じとることが出来ます。

 

 さて、明治天皇の崩御後、大正元年(1912)9月13日から15日の斂葬(れんそう)の儀を中心として、一連の大喪の諸儀が行われました。一切の大喪事務は、崩御当日の7月30日宮中に置かれた内閣の組織「大喪使」が司っていました。

 

 9月13日、葬場殿の儀が東京青山練兵場で行われた後、霊柩は列車で京都南部の伏見桃山陵に運ばれ、9月15日に奉葬されました。

 この一連の様子は当時の新聞・雑誌や出版物の他、大喪使で作成された公文書や写真帖といった様々な形態のものから窺い知ることができます。大喪使作成の文書等は国立公文書館や宮内公文書館で所蔵されています。

 

 宮内公文書館には他にも大喪使から制作を委嘱された原在泉(はらざいせん)の絵巻物があります。

 原在泉は京都画壇で原派の流れを汲む代表的な絵師で、京都府画学校教授等を歴任し、明治20年の皇居造営時には杉戸絵を手がけています。

 展示資料は伏見桃山陵へ至る鹵簿(ろぼ・葬列)のうち葱華輦(そうかれん)の部分です。原自らによる伏見桃山での実見に支えられて写実的に描写しながらも、鮮やかな色彩、柔らかな線描など、大和絵の世界が余すところなく表現されています。

 

崩御

明治天皇が崩御した公式の日時は1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり、同月30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。

 

 持病の糖尿病が悪化して尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御した。これに伴い、皇太子嘉仁親王が皇位継承し(大正天皇)、第123代天皇として践祚した。

 

 明治天皇は明治45年(1912年)7月11日の東京帝国大学卒業式に出席したが、「気分は悪かった」という。侍医では対応できなくなり、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。20日宮内省は天皇が尿毒症で重態と発表した。

 28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。「病や死などの『穢れ』を日常生活に持ち込まない」という宮中の慣習により、また、明治天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典侍)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、明治天皇は自分の寝室である御内儀で休養することができなくなった。

 そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった。看護婦も勲五等以上でなくてはいけないので、五位以上の女官が看護した。

 

 7月21日以後、平癒を祈願する民衆が終日宮城前に集散した。東京市は天皇に騒音が届かないよう内濠線の電車を徐行し、三宅坂交差点では軌道にボロ布を敷いた。

 

 宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。

 これは「登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めた」という。

 

 明治天皇の崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子も、この間の様子を日記に克明に記している。

  伊都子の日記によれば、「(伊都子ら皇族は)二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、『一同御そばに参れ』と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。

 

 明治天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが時計が10時半を打つ頃には天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で『オホンオホン』と呼び、皇后が『何にてあらせらるるやら。』と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった」という。

同年(大正元年)8月27日、追号を明治天皇(めいじてんのう)にすると、大正天皇による勅定がなされた。

 

世界における明治天皇崩御の受け止め

 

明治天皇の崩御は、世界各国で報道された。

 明治天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が「明治天皇の一年祭」に際して編纂し刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。

 

 各国別全28章にわたり20余国からなり、そこには、イギリス、フランス、帝政ドイツ、アメリカ合衆国はもとより、中華民国、イギリス領インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、アメリカ領ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国、在中国外国人の論調まで掲載されている。

 

 日本との軍事同盟を締結し同様に立憲君主制を敷くイギリスは「王朝の臣民として能く日本の君民関係は理解」、革命により王政を廃止し共和制国家となったフランスは「血を以って革命を贖いたる国民なるを以って、神聖なる君主政体と立憲政体の一致とは不可能なる如し想像し、民主主義に重きを措くの先入観あり」、当時は帝政を敷きのちに君主制が崩壊するドイツ、オーストリア=ハンガリーは「深奥なる哲理思想なる国民として多くは、大帝陛下の御治績を科学的分析的に研究」とした。

 

 日露戦争において日本に敗北して、社会主義革命により君主制が崩壊する帝政ロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」、近代史上初の共和制国家としての成立起源を持ち、黒船来航を行い日本が明治維新に至るきっかけを作り、  日露戦争の際には両国の講和の仲介役を務めたアメリカは「其建国の事情を異にし、自ら我が君臣の関係を知らず」さらに、米領フィリピンに対して、共和国でありながら明治天皇のために挽歌をつくり、「祖宗神霊の御加護を失ふ国民は滅亡すべしと謳える如きは最も味ふべき点」と述べ、また南米諸国も共和国であるが、「『我が国体の崇高さ』や『先帝陛下の叡聖』などを『憧憬仰慕』として感心している」と述べた。

 

崩御後

 7月30日、主要新聞は天皇崩御のために9月17日まで全ページを黒枠で囲んだ。

天皇が崩御した当時、天皇の葬儀(大葬)など、その祀り方については、規定は帝室制度取調局が上奏した段階であり、明文化されていなかった(皇室喪儀令や皇室陵墓令が公布されたのは、大正15年)。

 また、明治年間における天皇・皇室やそれを取り巻く社会の変化があまりにも大きかったため、それまでの先例の単なる踏襲にはならないことが想定され、具体的な式次第などは不明瞭のまま、一連の儀式の準備が始まった。

 

 まず、天皇の陵墓について、崩御当日に阪谷芳郎東京市長が宮内省に天皇陵の造営地として、東京が選定されることの希望を申し入れた。

 阪谷市長が同日招集された市議会でこの意見を述べると、これに実業家の渋沢栄一ら東京の政財界の名士が賛同し、西園寺首相などに働きかけを行った。しかし8月1日、河村金五郎宮内次官発表により、陵墓造営地は京都府紀伊郡堀内村伏見城址(桃山丘陵)であること、この決定の根拠は天皇の遺志であることが公にされた。

 

 9月13日の大喪の儀は極めて豪華だった。霊柩は午後7時に殯宮を出て轜車に移された。前侍従長徳大寺実則、侍従北条氏恭、主馬頭藤波言忠らが衣冠帯剣素服で霊柩の綱を引いた。

 

 轜車は唐庇で、英照皇太后大葬の際に用いられたのとほぼ同じであり、屋形、車体、両輪すべてが黒漆で塗られ、3000個の金具で飾られており、総重量は750貫(約280キログラム)に及んだ。

 轜車は8時20分に皇居を出た。その葬列は近衛騎兵連隊が先頭で、そのあとに軍楽隊が続き、弔曲「哀の極」を吹奏しながら進み、轜車の周囲は警視総監率いる警部12騎が警護を固めていた。その後に皇族や王公族、政府高官、華族などが大勢続いた。

 轜車が東京・青山練兵場(現神宮外苑)の式場に到着したのは10時56分のことだった。

 

 天皇、皇后、皇太后、英国王族のコノート公アーサーをはじめとした外国元首の名代、駐在大使、特派使節などが参列した。祭詞が奏された後、新天皇が玉座を離れ、霊柩に進んで拝礼し、桂太郎首相が捧げる御誄を取って読み上げた。天皇の声は低く悲しみに満ちた声だった。

 

 皇居から号砲が発射され、市民は一斉に黙とうした。また同時刻全国各地の国民が遥拝していた。

 14日に入った午前0時45分に式典は終了した。明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して伏見桃山陵に移動、9月14日に埋葬された。

 

 天皇陵の東京造営が叶わなくなると、阪谷らは御陵に替わるものとして、天皇の遺徳をしのぶものを東京に構えることを模索する。天皇崩御の直後、まだ御陵の造営地が発表される前から、天皇、あるいは天皇が統治した「明治」という時代を記念する何らかの施設を設ける意見が多数あり、その中身も神社、銅像、記念門、記念塔、博物館、図書館、美術館、科学院、記念植樹など多岐にわたった。

 

 結果、明治天皇の御霊を祀る神社を東京に創建することとなり、関東一円の複数の候補地からの選定の上で、大正9年(1920年)、明治神宮が東京に鎮座した。また、神宮外苑には聖徳記念絵画館(葬場殿の址地)をはじめ、各種の文化・体育施設が建てられ、神社のほかに立案されていた記念事業の少なくない部分を引き継いでいた。

 

人柄と影響

 

·「明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴」として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、どれほど寒冷な日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を着用し続け執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。

 

 皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)のための住居として建築された赤坂の東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)の完成を報告しに来た片山東熊に「華美過ぎる」と発言し、片山は「そのショックで、病気がちになった」という。

    

  一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官たちのことを、自分が考えたあだ名で呼んでいた。美子皇后(昭憲皇太后)には「皇后さん」と普段は呼びかけていたガ、あだ名は「天狗さん」であった。美子皇后は鼻が高かったため、このあだ名になったと言われている。

 

   幼少期からのいたずら好きは、東京で暮らすようになっても変わらなかった。1880年代、明治天皇はろうそくの灯を消して、女官を困らせるいたずらが好きであった。当時の奥では電気もランプも使っていなかったので、明治天皇がろうそくの灯を消していくと、女官が灯をつけ、「つけたり消したりキャッキャッ」と言って大騒ぎになった。

      

 食後、皇后や女官たちとともに、音の鳴らない手作りの楽器に興ずることもあった。

 雪が降ると、明治天皇は、奥で奉仕している10代前半の少年たちに、富士山の形のものを作れと言い、少年たちは女官たちと一緒に、庭に雪で富士山を作ったこともあった。

 

 東京で暮らすようになっても、私的な場では生涯にわたって京都弁を話した。侍従として明治天皇に仕えた日野西資博によると、明治天皇は京都が大変好きで、1897年に英照皇太后(孝明天皇の皇后)が崩御し、京都の陵に参拝した時などは、種々の理由をつけて東京に帰ることを引き延ばし、4月17日から8月22日まで滞在した。

 

 まず東京に帰る予定の5月4日に、暴雨風によって東海道本線の大磯・国府津間などが破壊されたため、帰りが延期になった。その時、明治天皇は「マーよかった」といった様子で、「低気圧か、低気圧もよいナー」と言って笑った。間もなく鉄道は復旧したが、5月下旬に東京で、はしかが流行したので、再び還幸が延期になった。しばらくして流行が終わったという通知がきたが、明治天皇が「まだ残っているはずじゃ、もっと調べてみよ」と言うので、調べさせると、東京市中で、2人の患者がいるだけであった。そのことを報告しても「それ見よ、まだ残っているではないか」と言ってなかなか東京に帰ろうとはしなかった。

 京都滞在中の明治天皇は何かにつけて御気楽のようで、朝に目が覚めると、白の着物のまま、御所の奥の庭へ降りてぶらぶらと歩くなど、運動も多くなり、健康的であった。

 

 明治天皇の食べ物の嗜好も京都好きを反映していた。元侍従の日野西資博によれば、魚では鮎・鯉・鱧や、若狭湾でとれた鯛やカレイが大好きであった。

 鮎は明治天皇が親王であった幕末期、賀茂川の名物であり、たびたび贈り物に使われていた。

 鳥類はうずらをはじめとして、たいていのものを食べ、とりわけ京都方面から取り寄せたものを好んだ。京都時代に食べていたせいか、野菜ではヨメナ・タンポポ・ウドを好んだ。

 

 明治天皇は刺身は嫌いで、絶対に食べなかった。明治天皇の育った時代、内陸部の京都では新鮮な刺身を食べることができなかった。新鮮な魚が手に入る東京に移っても、明治天皇が刺身を食べようとせず、鮎・鯉などの淡水魚の料理を好んだのは、京都時代に培われた味覚が一生変わらなかったためと考えられる。 

    

 どんなに暑い時でも、表では決して夏服を着ず、シャツや股引の薄いものを用いるだけで、冬服のままでいた。柳原愛子(明治天皇の側室で大正天皇の生母)には、「何を着ても暑い時は暑いのや、これでええ」と言っていたという。

 

 書籍は1880年代半ばまでは勉強として熱心に読んでいた。明治天皇は、フランスのナポレオンやドイツのフリードリヒ・ヴィルヘルム1世などが好きで、翻訳された伝記を読んでいた。

 また「三国志」や軍談物(合戦を主題とした江戸時代の通俗小説)が好きであった。とくに軍談物は、近くに誰もいなくても、人に読んで聞かせるかのように大声を出して読んでいたという。

 しかしその後、多用になって書籍は読まなくなった。また、柳原愛子によれば、明治天皇は「新聞はよしあしや」と言って、新聞も読まなくなった。元侍従の日野西によれば、日清戦争の頃、天皇の体重が誤伝されてからは、全く読まなくなったという。代わりに内閣や侍従が上申することで情報を得ていたと、明治天皇の側近は推測している。

 

   皇子の嘉仁親王(大正天皇)のことは常に気にかけ、その成長を喜んだ。柳原愛子によれば、明治天皇は、自分の子どもが病気になると「又わるいそうやな」と言い、いよいよ悪化したとの報告があると、黙って「ハー」と溜息をついていたという。

 

 しかし、嘉仁親王に対する愛情表現は不器用で、臣下の目を気にして、愛情を抑制した形でしか示せなかった。そして、嘉仁親王は成長するにつれて、厳格な父を恐れるようになった。

 

 明治天皇は、外祖父・中山忠能と生母・中山慶子を嘉仁親王の養育係にし、自身と同じ環境で育てた。さらに、嘉仁親王が11歳になってからは、身の回りの世話や教育を軍人に担当させるなど、質実剛健の教育を嘉仁親王に施そうとした。しかし、武張った教育は、病弱な嘉仁親王には悪影響を与え、明治28年(1895年)、嘉仁親王は風邪・腸チフス・肺炎を相次いで患い、一時は重体に陥った。

 柳原愛子によれば、嘉仁親王の病気が快方に向かった後、明治天皇は「これでわしもやっと安心した」と言って、ボロボロと涙を流した。その後、嘉仁親王の教育の見直しが始まり、明治31年(1898年)、明治天皇は、有栖川宮威仁親王に、嘉仁親王の教育を担当するよう命じた。

 

 有栖川宮威仁親王は、嘉仁親王の健康を第一にして、伸びやかに暮らさせることを教育の目的とし、明治天皇もそれを認めた。以後、嘉仁親王の健康と学習状況は大きく改善されて。

 

  酒が好きであった。元侍従の日野西によれば、明治天皇はブランデーやウイスキー等の少し辛い酒はほとんど飲まなかった。その代わり、日本酒・ワイン・シャンパン・ベルモットや、奈良・岡山産の「保命酒」・「霰酒」のようなものが好きであった。シャンパンなどは、2本も飲んでしまったこともあったという。

 

 天皇は日常は医者に勧められてワインばかりであったが、元来は日本酒が好きだったので、日野西たちは夜会の時には必ず「鶏酒」を一杯差し上げた。季節によっては「鴨酒」になることもあった。これらは、鶏肉または鴨肉に塩を振って軽く焼いたものを茶碗に入れて、上から熱燗の日本酒を注いだものである。

     

  宴席によく召しだされた比志島義輝によれば、明治天皇は、比志島に酒を飲ませろと命じるが、比志島は全く酒が飲めないので困っていると、飲めぬなら歌を詠めとの難題が出ていた。

 ある時これを見て侍従の一人が「酒に酔ひ 顔の形も ひし島が 歌をよむやら 恥をかくやら」と詠むと、明治天皇は「それは下の句が悪い」と言って「ひげに似合はぬ 歌のやさしさ」と直した。

 

 第九皇女東久邇聡子(稔彦王妃聡子内親王)の証言では、「記憶力が抜群で、書類には必ず目を通した後に朱筆で疑問点を書き入れ、内容を全て暗記して次の書類と相違があると必ず注意し、よく前言との相違で叱責された伊藤博文は『ごまかしが効かない』と困っていた」とある。

 

 「日本の残すべき文化は残し、外国の取り入れるべき文化は取り入れる」という態度を示した。

 

   乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。蹴鞠も好み、自身でも蹴鞠をし、教えもした。蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い「蹴鞠を保存せよ」との勅命と下賜金でもって明治40年(1907年)5月7日に飛鳥井家の蹴鞠を伝える蹴球保存会を梅渓道善(うめたにみちとう)を初代会長に発足させた。

 

  能を好み、自己流の謡を吟じていた。侍従試補や掌侍に教えたりもしていた。孝明天皇と英照皇太后も能が好きであった。明治天皇は、能好きの英照皇太后のために青山御所に能舞台を造り、舞台開きを一緒に鑑賞し、たびたび能を催した。

 

   明治初期に洋装を始めてから、日清戦争が起きるまでは、フロックコートを着て公務をしていた。

 

  当時の最新の技術であったレコードをよく聴き、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいた。機嫌の良い時は琵琶歌を歌っていたが、周囲の証言では「あまり上手ではなかった」とある。

 

 オルゴールを愛していた。オルゴールは、文久2年(1862年)、明治天皇が10歳の時に、天台座主の慈性親王(有栖川宮韶仁親王の第2王子)から贈られたが、これは明治天皇が最初に触れた西洋風機械仕掛けの可能性がある。明治天皇は、東京で暮らすようになってからも、オルゴールを収集していた。」

 

  1880年代、奥で奉仕する少年たちと一緒になってビリヤードを楽しんでいた。

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 奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。

 

  散髪脱刀令が出された後の明治6年(1873年)3月、明治天皇が西洋風に断髪したことで、国民も同様にする者が増えたという。

 

 「兵たちと苦楽を共にする」という信念を持っていた。例えば日清戦争で広島大本営に移った際、「暖炉も使わず殺風景な部屋で立って執務を続ける」といった具合であった。こうした態度は、晩年に自身の体調が悪化した後も崩れることがなかった。

 

 青年期(とりわけ明治10年代:1877-1886年)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しよう(親政)と積極的であった時期がある。

 

  元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。

 

 「教育に関しては、儒学を基本にすべし」とする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

 

 こうした事態を憂慮した伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝達することで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。

 

 その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。

 

 無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14年(1881年)の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になる余り、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞である)。

 以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、自身も「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に帯刀していた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として名刀の散逸が防がれることとなった。反面、集めるだけでなく試し斬りを好み、数多くの名刀を試し斬りにて損傷させてもいる。

 

 明治34年(1901年)に伊藤博文が内閣総理大臣の辞表を提出した時は「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表は出されず」と述べた。現に、明治22年(1889年)に制定された旧皇室典範と登極令で退位禁止が明文化されていた。

      

  写真嫌いであったことは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネ(お雇い外国人の一人)による肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」が必要となり、作成されたものである。

  

 明治19年(1886年)に新しい軍装が制定され、内田九一が写真撮影をしてから十年以上経って明治天皇の見た目も変わり、従来の写真では、各国の王侯貴族に贈与するには適さなくなっていた。

 しかし、宮内大臣の伊藤博文が明治天皇に写真撮影をお願いしても、天皇は「ウン」と答えたきりで許しがなく、後継の土方久元宮内大臣が天皇にお願いしても、天皇は「ウン」と応答するのみで許しがでなかった。そこで土方は、明治天皇を撮影するのではなく、密かに筆写することを考えた。

 土方は、画家で大蔵省印刷局雇のエドアルド・キヨッソーネに、明治21年(1888年)1月14日、芝公園弥生社行幸の日に、明治天皇の姿を至近距離からスケッチするよう命じ

 

 キヨッソーネは天皇をスケッチすることに成功したが、この時の天皇は正装姿ではなかったため、筆写できたのは天皇の顔のみであった。

 そのため、キヨッソーネは自ら正装を着用して写真に収まり、それをモデルにして天皇の身体部を描いた。

 その後、完成したコンテ画を当代有数の写真師であった丸木利陽が写真化して「御真影」は誕生した。

 

 明治22年(1889年)7月27日、土方は罰をも覚悟して、それを明治天皇に奉呈したところ、天皇は一言も発しなかった。その後、外国の皇族から明治天皇の写真が欲しいとの申し出があったので、土方が2、3枚の「御真影」を持って行って署名を願ったところ、天皇は直ちに署名した。

 土方は「御真影」の勅許を得たものと、ようやくほっとした。9月10日、明治天皇は「御真影」を作成したキヨッソーネに晩餐を与えた。

 

 医者も嫌いだった。明治天皇は自分の健康に自信を持っていたので、体調が少し悪くても医者にかかろうとはしなかった。病気の時に医者に診察させることも、寝込むのも嫌いであり、身近な奉仕者がうかつに提言すると、明治天皇の機嫌を損ねることもあるので、気を遣った。

 

 明治天皇は、風邪を引いたら、まず生姜の砂糖湯や、橙湯を飲んで自分流に治そうとし、熱が高くなって悪化してから初めて侍医が拝診して、寝込むことになった。

 

  最晩年は、体調も悪く歩行に困難をきたすようになった。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いたり、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまい「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴るなど、これまでの壮健な天皇に見られなかったことが起こり、周囲を心配させた。

 

 大喪の日には、日露戦争の英雄の一人でのちに明治天皇の勅命で学習院院長を務める陸軍大将乃木希典が妻静子とともに殉死し、社会に波紋を呼ぶこととなった。

 

 貧困層に対する医療政策として明治44年(1911年)2月11日、『済生勅語』によって、皇室からの下付金150万円を済生会創設に下付された。

 

 諸外国では切手や貨幣に国家元首の肖像が数多く用いられていることから、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが明治天皇の肖像図案を提案したが拒絶された。

 そのため明治天皇の肖像切手は一度も発行されていなかったが、セルビアで2007年(平成19年)に発行された「セルビア・日本相互関係125年」記念切手の図柄に、関係樹立当時のセルビア国王ミラン1世と、若き明治天皇の肖像(右の画像1枚目)が描かれている。

·     

   日露戦争で勝利した日本に列強支配打倒の希望を持った一部のイスラム教徒により、明治天皇カリフ化計画が「イジュティハート」誌上の論文にて主張された。イランからはタバタバーイーらの立憲派学者が明治天皇に電報を打ち、イスラム社会への保護と支援を求めた。

 

出典:ウィキペディアフリー百科事典

 

 

☆ ☆ ☆

爺さんごとぎが、明治天皇を語ることは極めて僭越であることは、言うまでもない。明治維新とという大改革をなし、近代日本の礎を築いた大恩人であろう。