青森県猿賀神社と北海道豊平神社 上毛野田道命と坂上田村麻呂 | dai4bunkuのブログ

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青森県猿賀神社と北海道豊平神社

上毛野田道命と坂上田村麻呂

 

 猿賀神社由緒

 古典(日本書紀)によれば田道命は「仁徳天皇55年(西暦367年)勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「56年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。

 蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。その後、200年の星霜を経て、欽明天皇28年(567年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている。

 桓武天皇の御代に再び暴夷を平定することになり、坂上田村麻呂将軍が兵を進め苦戦となった際、田道命の霊感を受けて大勝した。よって将軍は延暦12年(793年)8月23日現在の地に祠を祀り、その趣を天皇に奏上した処、勅命により、大同2年(807年)8月15日社殿を造営、奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。以来猿賀の深砂宮(神蛇宮)と崇められ御神徳四方に遍く、地方唯一の霊場と仰がれるに至った。

 かつては国司、探題、(藤原秀衡公、北畠顕家卿、阿倍氏代々等)の崇敬篤く、藩政時代に入り藩主津軽為信公により、祈願所と定められ社殿の改修造営、また社領の寄進などしばしばであった。

 明治4年太政官政令にて権現号を廃して猿賀神社と改称し、明治6年郷社に列せられ、更に明治13年県社に昇格、戦後は社格が廃せられたが、昭和34年神社本庁別表神社に加列せられ今日に及んでいる。崇敬者は県内は勿論、北海道並に東北一円に及び眼の守護神とする特殊信仰並びに、辰年、巳年生まれの守護神として広く崇敬されている。

 

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豊平神社由緒

 当神社は上毛野田道命・大山衹命・倉稲魂命の三柱を奉斎する。
主祭神上毛野田道命は、崇神天皇の皇子豊城入彦命より5代目の子孫にして東北地方の守護神として厚く崇敬せられ、特に延歴年間征夷大将軍坂上田村麻呂が奥羽地方平定に向かわれた時、田道命の神霊の御加護によりこれを平定することができ、後に今の青森県南津軽郡猿賀山に神霊を観請して社殿を建立したもので、猿賀神社は当神社の本社に当たる。

 古典(日本書紀)によれば田道命は「仁徳天皇55年(西暦367年)勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「56年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化 して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。

 その後、200年の星霜を経て、欽明天皇28年(567年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている。当地域は東北地方移住者多く、それゆえに故郷の氏神様をお祀りしたものである。
 さらに当豊平地区は開墾の途上で森林遠く連なり、これが伐採に大山衹命を祀り、開墾進み沃野美田の広がりに行くにつれて倉稲魂命(稲荷大神)を合祀して豊平地区の氏神様して奉斎され現在に至る。

 

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坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)

 

進軍の街道

 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は平安時代初期に桓武(かんむ)天皇によって征夷大将軍に任命され、奥州の平定にあたった武人として有名です。
 田村麻呂が奥州遠征をしたころ、街道はどのようになっていたのでしょう。
 

 大化の改新(645年)を経て、日本は律令制国家に舵を切り、戸籍を作り税制や兵役を整備して中央集権国家に衣更えしました。

 国土を守るためにも、租庸調(そようちょう)を納めさせるためにもまず道路が必要になります。そこで大がかりな土木工事が行われました。律令制が取り入れられ戸籍が整備されたからこそ大規模な労働力の動員も可能になったのです。

 古代の道は、実は近世の道より規格が立派でした。駅路(えきろ)と呼ばれる大道では幅が12メートルもあり、両側には雨水を排水するための側溝が造られています。伝路と呼ばれる細いタイプの道でも幅は6メートルでこれにもきちんと側溝があります。道筋も真っ直ぐ直線的で、たとえ障害となる丘陵地があっても迂回しません。ですから現代の高速道路建設の現場でよく遺構が発見されるのはルートが似ている古代の道路なのです。

 神奈川県でも、律令の時代に造られた道が道路工事などにともなって発掘されています。平塚市中原上宿(なかはらかみじゅく)の構之内(かまえのうち)遺跡では、幅9.7メートルの古代道路とみられる遺構が見つかっています。中世には幅3メートルに縮小されているので、中央集権制が弱まって地方の道路の維持が難しくなっていった様子がしのばれます。

 坂上田村麻呂が活躍した平安初期、桓武天皇は平城京からの遷都に続き、その頃盛んに蜂起を繰り返していた蝦夷(えぞ)の討伐を決断しました。

 

 すでに奈良時代の天平(てんぴょう)9年(737年)には大野東人(おおののあずまひと)という将軍が陸奥(むつ)の国多賀柵(たがのき)(宮城県多賀城市)から出羽柵(でわのき)(秋田市)までの「直路」の開削を願い出て許可され、『岩を刻み木を伐り、谷を埋め峰を削った(続日本紀)』難工事の末、道路を完成させました。

 

 その一方で、桓武帝の時代の延暦(えんりゃく)8年(789年)には、紀古佐美(きのこさみ)率いる官軍が阿弖流為(あてるい)の蝦夷軍に大敗してしまいます。

 

 起死回生を賭けた延暦12年(793年)進発の官軍に、征東副使として加わったのが坂上田村麻呂でした。田村麻呂は軍の中心として目覚ましい働きをし、延暦16年、征夷大将軍に任じられます。そして延暦20年(801年)の遠征で勝利を収めると、翌年には蝦夷の族長阿弖流為ら500人余りが投降し、対蝦夷戦には一応の終止符がうたれたのです。

 坂上田村麻呂の東北遠征当時、日本は五畿七道(ごきしちどう)に分けられていました。宝亀(ほうき)2年(771年)には武蔵国が東山道(とうさんどう)から東海道に編入され、だいぶ現在の地域区分に近い姿になってきます。道路の整備も駅制(えきせい)の整備とともに進み、大規模な行軍も可能になりました。もちろん大野東人の直路も軍用道路として威力を発揮したことでしょう。

 辺境の地だった奥州を、日本の国土に組み入れる戦いをするためには、まず道を通すことが肝要だったと言えます。道があってこそ人が住み、文化が浸透します。

 

 坂上田村麻呂は優れた武人であっただけでなく、稲作や養蚕を蝦夷の人々に伝播することで文化的に懐柔していく方針を取った戦略家でもありました。

 武力衝突を繰り返して双方に多くの犠牲を出してきた蝦夷との戦いが終結し、帰順が進んだ陰には坂上田村麻呂の叡智だけでなく、大野東人などの、道を築いた先人の努力もまた重要だったのです。

 

 参考文献:「道 Ⅰ、Ⅱ」武部健一 法政大学出版局2003年

 

 

 

              

                上毛野田道命 (前賢故実)