爺さんの日々こもごも | dai4bunkuのブログ

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爺様会長からのお知らせ、日々の思い、期待を込めての意見等を
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爺さんの日々こもごも

 さっぽろまつりが終わり、7月の豊平神社の例大祭が近づいてきた。

6月17日 区社協「65歳以上名簿」取扱い研修受講・名簿交換

6月18日 市教委学校再配置検討委員会第6回会議出席

6月19日 午前中、女房の入院手続き・付き添う。

      16:30~自衛隊協力会豊平区協議会定期総会出席、監査報告(月寒公民館)

6月20日 16:30~町連広報紙「広報とよひら」編集会議、記事の選考・原稿作成者案

      18:00~「フロンティア21とよひら」=まちづくり連絡会 歴史講演会

            「豊平神社140年史」発刊記念 ・・・取材あり。

6月21日 14:30~ 入院中、女房への面会

 

日々、行事多忙。23日(日)18:00~町内会6月役員会

 

  

         

毎朝、町内清掃を継続、犬の糞の放置が多い。今朝も1か所。

 

こんな日々が”幸せ”の証なのかな。

 

1年前、こんなブログを書いている。

 

「死後の世界はあるのか、無いのか」

 

 宗教の根幹にかかわるこの問題をズバリ釈迦に問いかけた弟子がいた。これに釈迦はどう答えたか。二千数百年後の今日でも、思わず耳をそばだてたくなるようなこの問いに対する釈迦の応答が、古い経典に記録されている。

 

 結論から先にいえば、釈迦のとった対応は答えを拒絶する「無記答」の態度であった。

 

 その理由として、人間の思考領域では永遠に回答を見いだせない形而上的問題、すなわち来世の有無や、世界の有限・無限に関していくら議論したところで、それによって煩悩が消滅し、心が安らぐものではない。

 

 それよりもいちばん大事なことは、人間を常に襲ってやまない諸々の苦しみからいかに離脱するか、そのための智慧をきわめることが、われわれにとってのさし迫った重要課題である。

 

釈迦は弟子たちを前にしてこう教えを諭したという。

 

 時代は降って鎌倉時代の初頭、来世の有無を最も真摯に考えた仏教者に親鸞がいる。

あるとき、弟子たちがやってきて、極楽浄土が確実に存在することを保証してと迫った。

 

 これに対し、親鸞は、浄土があるかないかは、「面々の御はからひなり」と、突きはなしたのである。

 

 お前達それぞれの求め方次第だという、このひと言の中に、来世の湯無をめぐっての深い洞察が秘められている。

 

 すなわち、来世は「有るか、無いか」の論法で客観視できる世界ではなく、「有ってほしい」という願いを抜きにしては存立し得ない世界なのであり、個々人の願いとは無関係に存在し消滅する、一般存在とはその在り方を異にしている世界であるあることを、親鸞は見通していたのである。

 

 爺様:良く分からないが、来世や、極楽浄土があるか無いかでない。

 

 死んだ人があの世から戻って「極楽の世界は綺麗な花が咲き住みやすい素晴らしいところだった。」とか、教えてくれた人がいないのだから、わかるはずがない。

 

 悟りを開いた偉い方は頭が良いが、弟子たちに問い詰められて、窮地を顔に出さないで、はぐらかした。

 親鸞も「有ってほしいとの願いによって」存在も消滅もする。・・・等と窮地免れの迷言でその場をしのいだだけさ!といってひねくれた爺様みたいなのもいる。

 

 わからんものはわからん。・・一生かかって修行し、来世やお浄土を観てきたいものだとでも言っとけば済む話だ。

 

☆ ☆ ☆

 

爺さん

 

 政治の世界は、お粗末。・・・・足の引っ張り合い。

 鹿児島県警の問題・・・・・・・お粗末

 

"あるがままにて、満足するもの万歳。      武者小路実篤​​

 

"この世の中には色々の不幸がある。しかしその不幸からよきものを生み出そうとし、また生み出し得るものは賢い人である。"         武者小路実篤​​