エピソード - 第7代台湾総督 明石元二郎墓所 | dai4bunkuのブログ

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エピソード - 7代台湾総督 明石元二郎墓所

死んだなら、台湾に埋葬せよ

 明石元二郎は、陸軍幼年学校から士官学校、陸軍大学と軍人の育成一筋の道を辿った。

 幼い頃から頭脳明晰で、周囲からもその将来を嘱望されていた。

 

 特に語学は堪能で、ドイツ語、フランス語、ロシア語などは他の追随を許さなかった。ドイツ留学、フランス駐在武官などの経験を生かして、対ロシア工作の中心人物になる。

 日露戦争では、ロシアでの後方攪乱を任務として行い、それを見事に成功させた。日露戦争を早期終結に持ち込む意味での陰の立役者となったが、その苦労は公文書には記されることはなかった。

 

 その後、日韓併合に韓国憲兵隊長として関与し、治安維持に当たった。しかし、明石の胸には、対ロシア工作で知った民衆の心が常に去来していた。ロシア革命の中心人物であるレーニン(明石は名前を音から「礼仁」と表現した)とさえ交流があったほどである。明石は、韓国で自分がやっていることと、仲間と戦ったロシアでの自分とは、まったく逆であることを忸怩たる思いでいた。

 

 こんな思いを明石は友人に打ち明けている。「韓国は日本の統治を受けた方がある点ではいいかも知れぬ。だが、日本が韓国に無関心でいられないのは、この国の人々の幸せを思ってではない。日本人の幸福のためだ」明石は、韓国人の心を微妙なところで察するだけの洞察力を持ち合わせた軍人であった。

 

 その明石が大正7年(1918)、台湾総督に任命される。直後に陸軍中将から大将に昇格して、7月に総督府に着任した。

 総督府高官を前にした最初の訓示で「台湾を内地同様の状態にすることを目指せ」と命じ、地方官会議では「産業と貿易を振興し、台湾を繁栄させなくてはならない」「内地人と本島人の相互協和を図り、母国と人心を同じくさせるのが統治の主要な目的」と訓示した。

 

 さらに明石は「本島人を等しく教育できるようにすべき」「世界における人文の発達に本島人を順応させる」などと総督府部下に命じた。

 

 着任すると、そのまま台北市内の巡察から始め、台湾全島の視察を行った。自分の目で実状を確かめるためである。その結果、殖産産業に力を尽くす決意をする。

 

 まず教育改革に取り組み、公学校官制改正、師範学校官制、高等普通学校官制、実業学校官制、商業高等学校官制、医学専門学校官制などの台湾教育令を公布している。

 

 さらに明石は、田畑などの地租負担の公平を目的とした地租制度の改正、華南銀行改行、総督府の官制改革にも着手し、裁判制度も二審制から三審制に移行させた。

 

 明石の台湾統治方針は「300万人ともいわれる台湾の本島人をどこまでも日本人として受け入れ、日本人の中に繰り込んで、本来の日本人と見分けもつかず、差別もない人々にする」というものであった。

 

 明石は、台湾中部の日月潭に大きな発電所を建設し、台湾電力株式会社を設立した。

 だが、病魔が明石を既に蝕んでいた。大正8年(1919)7月、インフルエンザから肺炎を誘発した明石は、一旦は回復したものの10月になって再び病状を悪化させた。

 脳溢血に似ているが、尿毒症からの発作かもしれない、と診断された。故郷に戻って療養に専念したい、との希望から明石は福岡にもどり、今はない明石の生家跡正面にある松本邸を借り受けて入った。3日目、手足のしびれを訴え、そのまま昏睡状態になって5日を生き、24日朝に逝去した。享年56歳であった。

 

 明石は日頃から家族や部下に「台湾に入ったら台湾のものを食べ、台湾で尋常な生活をすべきだ。もし死んだなら、台湾に埋葬せよ」と話していたという。そしてその希望の通りに遺体は、日本から台湾に運ばれ11月3日、荘厳な葬式の後、台北の三板橋日本人墓地に埋葬され、台湾の土になった。

 

 統治者が、その統治下にあった地を永眠の場所に選ぶということは、歴史上類を見ないことである。

 

 とろが、三板橋日本人墓地は、大東亜戦争後、大陸から怒濤のごとく押し寄せてきた難民達によって占領され、彼らの住居となってしまっていた。

 そして昭和62年(1987)、台北市の都市計画でこの日本人墓地が公園に開発されることになり、避難民たちは強制撤去させられる。

 日本人の墓は掘り起こされ、遺骨は全て台中の寺院に預けられた。しかし、明石の遺骨だけは台北近くの寺院にしばらく預けられ、縁あって台北県三芝郷の福音山クリスチャン墓地に埋葬されることになり、明石元二郎台湾総督は今、台湾を見守るものとして、台湾海峡を眼下に望みながら安らかに眠りにつかれている。

 

* *

 

元台湾総督はロシア革命期、ヨーロッパで活動した日本のスパイだった。

 

明石 元二郎(あかし もとじろう、1864年9月1日(元治元年8月1日) ~ 1919年(大正8年)10月26日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督福岡藩出身。妻は国子(郡保宗の二女)、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。明石泰二郎(陸士27期、陸軍少将)は甥。

経歴

生い立ち

福岡藩士・明石助九郎貞儀の次男として元治元年(1864年)に福岡藩・福岡城下の大名町に生まれる。明石家の家格は「大組」(福岡藩黒田家の家中で、最上位の家格「中老」に次ぐ2番目の家格。)であり、1300石の大身であった。

 

 1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となった。1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた。更に1889年(明治22年)に陸軍大学校(5期)を卒業する。

ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)にフランス公使館付陸軍武官となる。

 1902年(明治35年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任、のちに首相となる田中義一陸軍武官から業務を引き継ぐ。当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた。

 

 首都ペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。明石の依頼により、ライリーは1903年(明治36年)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。

 

 日露戦争での諜報活動

明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠として活動する。

 

 開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は、開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。さらに明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉から、「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いた

 

 明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触した。例を挙げると、フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、他ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。

 特に、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus)率いる フィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取り、資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。

 

 内、鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた。

明石の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであり、満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。

 

 また、明治37年(1904年)5月、ポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキが児玉源太郎と会談した。満洲軍設置の折、激務であった児玉がわざわざ時間を割いたのは、明石から情報を得ており、連携が取れていた為である。

 

 日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図した明石の活動は、後に、明石自身が著した『落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。

参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある。

 成果の度合いや後述するレーニンとの会見の有無については別にしても、これら明石の謀略活動の意図に関しては研究者の間でもほぼ見解は一致している。

なお、前述した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』において、以下のような粗筋がベースになって描かれている。

 

 明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。

 これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。

 

 この件は歴史家から疑念が示されている。例えば、稲葉千晴が、明石が拠点とした北欧の研究者と共同して行った明石の工作の検証作業では、レーニンと会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されず、現地でもそのような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動をチェックしており、明石が血の日曜日事件やポチョムキンの反乱に直接関与していた根拠は薄いとしている。

 

 ただし一方で稲葉は、日露戦争において欧州での日本の情報活動が組織的になされていたこと、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについては評価している。今井はレーニンと会談したという話を、日露戦争後に陸軍で傍流扱いされた明石の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定している。また西原和海も、著書において“レーニンは明石の申し出を断った”と記している。

 

 日本国内においては、日露戦争での明石の活動が評価されているが、対戦国であったロシア側は、明石の活動がロシアの対日警戒、対日諜報活動を促したとしている。

ロシアの月刊誌『ロージナ(ロシア語版)』(Родина、『祖国』の意)は2004年の日露戦争特集号で、日本の参謀本部や外務省は満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築したが、このことがロシア(ソ連時代)の対日情報工作の強化(一部はゾルゲ事件のように明るみに出る)に繋がったこと、また日本自身の防諜体制の甘さをもあわせて指摘している。日本側もフランス人記者を使ったロシアからの諜報工作に晒されていたのである。

 

 日露戦争中、明石は一人で巨額の工作資金を消費した。それは当時の国家予算約2億3,000万円の内、100万円(今の価値では400億円以上)程であったが、参謀総長山縣有朋、参謀次長長岡外史らの決断により参謀本部から支給され、ロシア革命支援工作などにも利用された。

 

 この点について評論家西部邁は「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。一兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」と述べている。

 

日露戦争後

  明治43年(1910年)7月、寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、朝鮮併合の過程で武断政治を推し進めた。

 大正3年(1914年)4月、参謀次長となるが、翌10月熊本の第6師団長に転じる。問題なく職責を全うしていたにもかかわらず、わずか1年で熊本の第6師団長に転補させられた背景には、陸軍内における「スパイ蔑視」の風潮がある。

 

 児玉源太郎や山縣有朋はそのような風潮を深く認識していたが、同時に情報の重要性も理解していた為、明石や福島安正などの情報畑の人材を積極的に引き立てていた。 

 だが依然明石を警戒する空気は根強く、結果的に更迭された。明石自身単独行動が多く、派閥行動や組織内遊泳に長ける環境になかったことから、情報将校が出世し辛い、ひいては情報を軽視する風潮につながった可能性が指摘されている。

 

 同7年(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任中は台湾電力を設立し水力発電事業を推進したほか、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため新たに海岸線を敷設したり、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正して台湾人にも帝国大学進学への道を開いたり、今日でも台湾最大級の銀行である華南銀行を設立したりしている。

 

 また、八田與一が嘉南平原の旱魃・洪水対策のために計画した嘉南大圳の建設を承認し、台湾総督府の年間予算の3分の1以上にもなったその建設予算を獲得することに尽力した。

 大正8年(1919年)8月、台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務。

 

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